泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風をまとい、丘を駆ける影たちに出会った。

人の手では描けぬ静謐と、鼓動のような地響き。
歩き続けるうちに、私は永遠に触れた気がした。

風が語り、馬が唄う、その場所へ。


0040 風と馬の唄

 

乾いた草の匂いが、風の隙間に満ちていた。

 

足元で揺れる背の高い草が、歩を進めるたびにささやかな音を立て、まるでこの土地の眠りを乱さぬよう囁きかけてくる。

どこまでも続くなだらかな丘。

空の色は澄み、青というにはあまりにも深く、雲の影さえ見つけられぬほど澄み渡っていた。

 

歩くたびに、靴底に草露が滲む。

 

その透明な水滴が朝の光を拾い、草々を宝石のようにきらめかせている。

土は柔らかく、長い雨のあとのようにふかふかと足を受けとめ、歩くほどに心が静まっていった。

 

やがて、ひときわ風の強い丘を越えたとき、視界の底が静かに開いた。

 

そこには、言葉では到底覆いきれぬ広がりがあった。

いくつもの草の海が折り重なり、風にたなびく度に波打つ。

緑の起伏がどこまでも連なり、そのなかを数頭の影が駆けていた。

遠く、近く、ふとした音もなく、ただ草を押し分け、風とともに、馬たちは流れていた。

 

その姿は、現のものとも思えなかった。

尾が翻り、脚が地を蹴り、身体が風そのものと化していた。

踏みしめる音もなければ、叫びもない。

ただ、蹄が宙を裂く音が、耳の奥でぼんやりと響くのみ。

 

ひときわ白い一頭が、丘の尾根を切り裂くように駆けていく。

 

その背筋は真っ直ぐで、風の道筋と同じ方向に伸びていた。

陽の光がその身体を透かし、白い毛並みの中に光の粒が宿る。

まるで時間の裂け目から抜け出してきた幻のように、そこに在りながら、決して触れられない存在だった。

 

彼らが走るのは、恐れからではない。

 

競い合いでもない。

 

ただ、風がそうしろと命じたから。

彼らはそれに従っている。

ただそれだけの理由で、あの丘を、あの空を、今も走っている。

 

私はしばらく、足を止めたまま立ち尽くしていた。

 

風が服の裾を持ち上げ、髪の間をすり抜けてゆく。

空は変わらず広く、そして沈黙に満ちている。

その静けさが、あまりにも深かったから、馬たちの走る音すら、風の旋律の一部のように感じられた。

 

遠くにひと筋、川が流れているのが見えた。

陽の反射で見え隠れしながら、草の海の底を縫うように流れている。

馬たちはときおり、その川の際で立ち止まり、顔を下げて水を飲む。

 

静けさの中に、生の鼓動がかすかに混ざる。

水を飲む音、鼻息、蹄が湿地を踏む音。

 

それらすべてが、自然という大きな拍動の一部だった。

 

この地には、何もない。

壁も屋根も、道標さえもない。

 

ただ、風がある。

 

空がある。

 

そして馬たちが走る丘がある。それだけで、すべてが満たされていた。

 

歩を進めるたび、草の香りが濃くなっていく。

ひとつの丘を越えれば、また次の丘が現れる。

そしてそのたびに、新しい馬の姿が現れたり、あるいは何もいない静寂だけが支配していたりする。

 

それがこの旅のすべてだった。

私は、ただそれらを目で追い、心に刻み、歩き続けていた。

 

昼の光が最も高く昇った頃、風は一度、静かに息を潜めた。

すると、馬たちの姿がよりはっきりと現れ、彼らの身体の影が地に深く落ちた。

黒い馬は金属のように光り、栗毛の馬は夕日の気配を先取りしていた。

彼らの間に上下関係はなく、ただそれぞれの鼓動に従って、自由に走り、自由に止まっていた。

 

やがて、風がふたたび目を覚ましたとき、馬たちは再び走り出した。

草原が波立ち、白い尾が空に舞い、丘の向こうへと姿を消していく。

その背には、何ひとつとどまらず、ただ風だけが、名残のように舞っていた。

 

それは、記憶の底に沈み込むような光景だった。

 

夢とも幻とも違う、もっと深く、もっと確かな何か。

ふと目を閉じれば、あの白馬の尾が翻る光景が、瞼の裏に今も焼きついて離れない。音もなく、匂いもなく、ただ風と光の粒がそこに在る。

それは永遠のようであり、同時に、刹那のようでもあった。

 

この地では、時が流れない。

 

ただ、風が流れている。それがすべてだった。

 

 




この地の記憶は、風とともに静かに胸に沈んでいく。
誰も語らず、誰も支配しない世界が、ただそこにあった。

馬の足音と草の香りだけが、確かに私を通り過ぎていった。

それは、生きているということの証だった。
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