泡沫紀行   作:みどりのかけら

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空がまだ色を持たぬうち、大地は微かな呼吸を始める。

岩の隙間に宿る熱は、忘れられた季節の端を照らし、薄明の中で名もなき影が身を起こす。

光よりも先に目覚めるものがある。
言葉では触れられぬものが、湿った空気の奥で、音もなく、確かに満ちていく。


0400 天を穿つ咆哮の地

足裏に伝わる脈打つような熱が、深い地の眠りを告げていた。

朝の気配はまだ色を帯びず、空は沈黙の水面のように曖昧で、ただ仄かな冷気が肌を撫でる。

 

苔むした岩肌に手を添えれば、地中のどこかで何かが身じろぎをする。

風のない谷間に、かすかに響く地鳴り。

まるで誰かが、遠い夢の底から、息を整えているようだった。

 

湯気をまとった水が、音もなく溜まり、澄み切った鉱石のように光を返す。

それは水ではなく、光の記憶だった。

落ちた葉はゆっくり沈み、底の見えない揺らぎに吸い込まれていく。

温かく、だが容易には触れさせない気配がある。

 

幾重にも裂けた大地の皺を辿って、獣のような荒い呼吸音が、突如として空を震わせる。

 

その一瞬だけ、風が逆巻いた。

白い咆哮が、天を突いて噴き上がる。

空に届くほどの力で、岩の隙間から蒸気が爆ぜ、周囲の空気が一斉に揺れた。

 

霧となり、雨となり、そしてまた大地へ還る。

輪廻のように、目に見えぬものたちが舞い踊る。

蒸気の中に閉じ込められた陽光が、虹のような環を描いて崩れ、足元の湿った土に光のかけらが落ちた。

 

黙ってその瞬間を見つめていると、時が緩やかに撓み、過去と未来が同時に手を伸ばしてくる。

この地の鼓動は、決して止まったことがない。

だれの記憶も追い越して、ずっと以前から、命の奥底で燃えていたもの。

 

耳を澄ませば、湯の揺らぎにまぎれて、人の言葉に似た囁きが混じっていた。

何かを伝えるというより、思い出そうとしているような、不確かな音の粒。

 

そこには名もなく、生も死も超えた、ただ在ることの力がある。

苔の匂い、硫黄を含んだ湿気、ほのかに甘い腐葉土の気配。

鼻の奥に滲んでいく匂いが、どこか懐かしい。

幼い頃、眠る直前の夢に似ていた。

 

湿った地面に手をつくと、掌がじんわりと温まった。

その温度が、ゆっくり胸の奥へと染み込んでいく。

 

足元の草はところどころ焦げ、だがその隣には、燃え残った命が小さな芽を出している。

新しい葉はまるで産声のように、やわらかく光をまとっていた。

 

吹き出した白煙は徐々に収まり、空はまた静けさを取り戻す。

けれど、何かが変わっていた。

 

歩き出す足取りに、微かな迷いがあった。

地の咆哮に打たれて、骨の中の記憶が、わずかにずれた気がした。

 

次の地平に何があるか、それはまだ霧の向こうに隠れている。

けれど、この地の叫びが胸の底で反響を残したまま、呼吸は静かに整っていった。

 

地面に広がる水の薄膜が、光を抱いて揺れている。

透明であることが、かえって存在を際立たせることがある。

その水はただの水ではなく、地の深くから這い上がってきた記憶だった。

過去に触れ、未来に蒸発してゆく、儚くて、消えがたく美しい震え。

 

木々の枝先にはまだ新芽がわずかに残り、春の名残を感じさせた。

その青さは冷たく澄んで、けれどどこか火に炙られたような痛みを秘めている。

蒸気に濡れた葉は光を吸い込み、無数の小さな鏡のように、周囲の世界を反射していた。

誰もいない空間を、誰の面影もないまま、ただ光だけが映っていた。

 

足元から立ち上る熱は、時折、呼吸の隙間を焼いた。

しかしそれは苦しさではなく、存在を確かにさせる熱だった。

肌に触れ、骨に沁み、まるで内側から炎を灯すような感触。

歩を進めるたび、世界が一層くっきりと輪郭を持ち始める。

 

ふと、ある場所で立ち止まる。

苔に覆われた石の裂け目から、細い湯の筋が音を立てて湧き続けていた。

その音は風に似ていたが、風ではない。

言葉に似ていたが、言葉ではない。

それは、あまりにも長いあいだ沈黙を続けたものが、ようやく息を漏らした音だった。

 

目を凝らせば、水面に揺れる光の中に、微かな影が揺れていた。

それは誰でもないものの輪郭。

この地の奥深くに住まう存在の、忘れられた貌。

 

ただ、見つめる。

応えるでもなく、恐れるでもなく、ただそこにあることを受け入れる。

この世界に溶け込むには、力も名も、必要なかった。

 

やがて、空にわずかな風が流れる。

それは季節の境界を知らせるように、淡く、確かに頬を撫でていった。

どこか遠くで鳥の影がよぎる。

その軌跡が音もなく空に裂け目をつけ、すぐにまた閉じる。

 

目を閉じれば、耳の奥にまだあの咆哮が残っていた。

天を衝き、大地を揺らした白の叫び。

忘れることはできない。けれど、それを言葉にすることもできない。

 

心の奥でわずかに芽吹いた何かが、名もなき感情のまま静かに根を下ろしてゆく。

それが希望なのか、記憶なのか、あるいはただの余韻なのかは、まだわからない。

 

けれど、それでも歩く。

次に出会う静けさが、今日よりも深く響くことを信じて。

 

土を踏みしめる音が、蒸気の立ち上る中に溶けていく。

温もりと、名残と、ほんのわずかな寂しさをまといながら。

 

咆哮の地はすでに遠ざかり、けれど耳の奥ではまだ、あの白い叫びが微かに鳴っていた。




風がやわらかく、葉の裏を撫でていた。

音もなく、気配だけを残して、ひとつの熱が地に還っていく。

それは始まりではなく、終わりでもない。
ただ、静かに在ったということだけが、光とともに、どこかへ滲んでいく。

水はまた、眠りに沈む。
次の鼓動までの、長い夢のように。
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