泡沫紀行   作:みどりのかけら

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朝と夜の境がほどけるころ、空はまだ名を持たぬ色をしていた。
地を渡る風が、どこか遠い記憶を撫でるように頬をかすめる。
足裏に伝わる土のぬくもりが、眠りの底から呼び覚ますようにやわらかく揺れている。

木立の間を抜ける光は、まだ目覚めきらぬ露の粒を透かしながら、そのひとつひとつに微かな鼓動を宿していた。
歩くたび、呼吸と世界とがひとつに重なっていく。

どこへ向かうのでもなく、ただ、風の匂いに導かれて。
時の名残がひと筋の煙のように漂い、やがてその先に、灯のまたたきを見る。

それが始まりだった。
遠い秋の夜、紅蓮の影が踊る場所へ、名もなき足音が吸い込まれていった。


0416 紅蓮の影絵踊り

薄靄の立つ道を、足裏が確かめるように踏みしめてゆく。

土は夜露を吸い、柔らかく沈んだ。

遠くで風が鳴り、鈴のような音が混じった。

音の方へ歩くと、霞の中に灯が幾つも揺れている。

橙の粒が、風にあおられ、かすかに伸び、また短くなる。

息をひとつ整えながら、光の群れに近づく。

 

そこでは、人影がゆるやかに円を描いていた。

焚かれた火の周りで、衣の裾がひらりと翻る。

誰も言葉を交わさず、ただ鼓の低い拍が大地の奥から響く。

火は紅蓮となって空を染め、影が地を舞う。

人と影とが溶け合い、ひとつの波のようにうねっている。

 

頬にあたる風が、焼けた木の匂いを運んだ。

煙が舞い上がるたび、夜の空が薄く裂ける。

そこにちらりと星の光が見える。

星は遠く、火は近い。

熱が肌を包み、胸の奥の何かがわずかに疼いた。

 

足もとに散った灰を踏むと、かすかな温もりが伝わった。

誰かが踏み鳴らす音が、すぐそばで重なる。

揃うことなく、しかし乱れでもなく、ただ不思議な呼吸のように続いている。

 

風が一瞬止み、笛の音が夜の端を縫う。

細く、かすかに震える音。火の粉が浮かび、宙に舞う。

赤い粒が幾つも線を描き、やがて闇にほどけて消える。

そこに残るのは、焦げた香と、衣擦れの微かな音。

 

空気が重く、ゆるやかに揺れている。

誰の顔もはっきりとは見えない。

光と影の境目が、何度も形を変えながら寄せては返す。

見上げると、月の輪郭が薄く滲み、火の色と混じりあっていた。

 

ふと、足もとの土に手をつく。

冷たさと温もりが同時に指に伝わる。

指先の隙間から小さな蟻が這い出て、光の方へ進んでいった。

火の反射で、一瞬その小さな影までも紅く染まる。

 

輪の中心で火が唸り、爆ぜた。

灰が宙に舞い、音が途切れる。

踊る影がいっせいに凍りつくように静止した。

その静寂の中に、遠くの虫の声が滲んでくる。

空気がほどける。胸の奥の鼓動が、まだ熱の中でゆっくりと鳴っている。

 

そして再び、鼓がひとつ打たれた。

低く、深く、地の底から響くような音。

止まっていた身体が再び流れ出す。

裾が揺れ、袖が舞い、影が寄り合い、離れ、また寄り合う。

光が踊り、影が踊り、夜そのものが踊っているようだった。

 

ひととき、時間がそこに沈んだ。

すべての音と動きが、ひとつの息に収束するように。

火の粉が降りそそぎ、髪に、肩に、静かに積もっていく。

手の甲でそれを払うと、淡く光った粒が指先でほどけ、空に帰っていった。

 

火の音が次第に細くなり、風がまた戻ってくる。

遠くで葉が鳴る。

夜の色が少しずつ冷えていく。

踊りの輪の外に立つと、光の境界が目の奥に残像を描いた。

まぶたを閉じても、紅の軌跡が揺れている。

 

まだ消えぬ火の影が、地に長く伸びていた。

そこに映る影は、誰のものとも知れない。

歩みを進めると、影も共にゆらりと動く。

 

焚火の匂いがまだ衣に染みついている。

歩みを進めるたび、焦げた香と土の湿りが混じり合い、呼吸の奥でひそやかにほどけた。

遠く、踊りの音はもう聞こえない。

耳の奥に残るのは、あの鼓の余韻と、足もとに流れる砂の音だけ。

夜は深まり、空はかすかな銀を帯びている。

 

道の端に、灯がひとつ、まだ燃えていた。

風に煽られて揺らぐその光は、まるで誰かが見送るように、かすかに瞬く。

手を伸ばせば届く距離にあるのに、触れればすぐに消えてしまいそうで、そのまま歩を止めずに通り過ぎた。

 

木々の影が濃く重なり、道はやがて森へと沈み込む。

そこには虫の声と、落ち葉の擦れる音しかない。足裏に伝わる感触が変わるたび、身体が季節の呼吸を思い出していく。

風が葉を巻き上げ、金と朱の破片が夜気の中を舞った。

月明かりがそれを照らし、空へと返していく。

 

手の中に残る火の記憶が、まだあたたかかった。

あの紅蓮の輪の中で、自らの影もまた踊っていたことを思い出す。

誰にも見えない場所で、誰かの影と重なり、ほどけ、また重なる。

あの瞬間、すべてが同じ呼吸であったような気がした。

 

やがて、川の音が近づく。

闇の中に白く泡立つ流れが見えた。

水面には月が細く揺れ、風が渡るたびにその輪郭が崩れる。

指先をそっと水に触れると、ひやりとした感触が、皮膚を越えて心の奥に沈んでいった。

 

水面をすくうと、掌に残るのは冷たさと光の名残。

ゆっくりとこぼすと、それが地に落ち、土が吸い込む音がした。

どこかで小さな鈴が鳴ったような気がしたが、すぐに静けさに溶けた。

 

空を見上げると、雲の切れ間から秋の星々が滲むように光っている。

その光の下で、自らの影がまた地を這っているのを見た。

火の色を失い、淡く、透明に近い影。だがその輪郭は、まだ確かに息づいていた。

 

夜がゆるやかに明けていく。

東の空の端が、ほのかに茜を帯びる。

草の先に宿った露がその光を受けて震え、地の息がまた目を覚ます。

歩みを止め、静かに息を吸う。

湿った空気の中に、遠い鼓の響きがまだわずかに残っている気がした。

 

その音は、もう現のものではない。

けれど、胸の奥の奥で確かに鳴っている。

紅蓮の火が照らしたあの夜の記憶が、ゆっくりと、微睡みのようにほどけてゆく。

 

掌を見つめると、灰の粒がひとつ、まだ残っていた。

風が通り抜け、それは指先から離れ、空へと舞い上がる。

陽が差し始め、光の中でそれは紅に染まり、そして消えた。

 

歩を進める。

土の匂いが新しくなり、空気が少し澄んでいく。

遠くの森の端で、鳥が初めての声を放った。

 

その声を聞きながら、胸の奥で微かな音がひとつ、また鳴った。

まるで、まだ終わらぬ踊りの続きを、どこかで誰かが奏でているように。

 

秋の朝が静かに満ちていく。

紅蓮の影絵の記憶は、光に溶け、ひとしずくの夢となって、胸の底に沈んだ。




夜明けの光が、灰の中からそっと生まれた。
冷たくなった空気の中で、火の名残が淡く漂う。
地に落ちた影はもう薄れ、代わりに、露をまとった草の先に小さな光が宿る。

息をするたび、胸の奥に紅の残響が滲む。
あの夜の鼓の音が、今も遠くで脈を打っているようだった。
それはもう耳で聴く音ではなく、土の奥に沈んだ、かすかな記憶の呼吸。

歩き出す。
道の端に、朝の風が降りてきて衣を撫でた。
その感触が、どこか懐かしい誰かの手のように温かい。

振り返れば、何もない。
ただ、光だけが世界を満たしている。

あの紅蓮の影絵は、もうこの目には映らない。
けれど、瞼の裏でいまも静かに揺れている。
秋の夢のように、暁の微睡みのように。
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