泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が沈黙の衣をまとっていた。
木々の梢が微かに揺れ、そのたびに遠い光が葉の間をすり抜けていく。
空の色はまだ名を持たず、朝とも夜ともつかぬ深さで息をしていた。

指先を通り抜ける空気は、どこか懐かしい匂いを孕んでいる。
それは土の底で眠る記憶の香り。
誰かが踏みしめ、誰かが去り、やがて忘れられた足跡の奥から立ちのぼるもの。

どこへ向かうのかも知らぬまま、歩みだけが前を知っていた。
風の音に導かれ、光のきざはしを追うようにして、季節の境を越えてゆく。

やがて、遠くで微かな拍がした。
それは心の奥底に沈んでいた眠りを呼び覚ますように、静かに、しかし確かに、夜の始まりを告げていた。

その音の向こうに、まだ名もない夜が待っていた。


0417 朧夜の輪廻旋律

水面を撫でる風の匂いが、胸の奥でほのかに震えた。

秋の気配は、息を潜めたまま地の底から滲み出すようにして、草の間を渡り、空を淡く曇らせてゆく。

足裏に伝わる土の柔らかさが、遠くを過ぎた季節の温もりをわずかに留めていた。

まだ陽の名残が残る夕刻、薄い光の縁が山の肩を染めていた。

 

やがて、音がした。

遠く、木立の向こう、霞の奥。

初めは風のざわめきと見紛うほどのかすかな響き。

しかし耳を澄ませば、それは揺らぎながらも確かな拍を刻んでいた。

ひとつ、ふたつ、そして、ゆっくりと重なり合う。

鈴のような調べが、秋の薄闇をほどくように流れてくる。

 

歩みを進めるたびに、その音は肌の下に染みてくる。

土の香りに混じるのは、焚かれた草の匂い。

湿り気を帯びた風が袖の端を掠め、灯のない路を照らすのは、わずかな月の淡い光。

耳の奥で、誰かの息づかいのように太鼓の音が脈を打つ。

音は見えない輪を描き、夜気のなかに広がっていった。

 

ひとところに辿り着いたとき、視界の奥にぼんやりとした灯が浮かんだ。

火ではなく、光そのものがゆらりと漂っているようだった。

その周りに影が幾重にも揺れていた。

肩を寄せ、ゆっくりと円を描く人々。

顔は見えない。

だが、衣の裾が風に揺れ、手の動きがひとつの流れを形づくっていた。

 

音が夜を縫っていた。

太鼓が低く鳴り、笛の声が細く伸びる。

足の運びは絶え間なく、まるで地の底の呼吸に合わせるように静かで確か。

空気が震え、音と影と光がひとつの輪をなして回っていた。

その輪の中心には何もない。

ただ、空白だけがあった。

だが、その空白こそが、すべてを抱いているように思えた。

 

目を閉じると、足元の大地が微かに脈打つのを感じた。

音が身体を通り抜け、骨の奥を叩く。

それは外から届く響きではなく、内にあった鼓動が応えるような感覚だった。

灯が揺れ、影が重なり、やがてすべてが一度に息を吸い込む。

その一瞬、時が止まる。

 

そして、再び音が解かれた。

輪が動き出す。

肩が擦れ、裾が流れ、風が戻る。

空には淡い雲が流れ、月の輪郭が薄れていく。

足を運ぶたびに、土が低く鳴り、音がその上に重ねられる。

誰も言葉を発さず、ただひとつの旋律が夜の底を巡っていた。

 

気づけば、指先が冷たくなっていた。

光の輪から離れ、空を仰ぐと、星がかすかに滲んでいた。

雲の切れ間に浮かぶその光は、遠く、淡く、声なきままに降りてくる。

音が遠のく。

だが耳の奥にはまだその拍が残っていた。

それは現のようでもあり、夢の残響のようでもあった。

 

歩みを止めずに、ふたたび道を進む。

草の間に漂う煙の匂いが、衣に絡まり、やがて薄れていく。

空気が少しずつ冷えてゆき、息が白く溶けた。

背に残るのは、もう聞こえぬはずの太鼓の余韻。

夜の奥で、誰かの影がまだ踊っているような気がした。

 

その気配は、風にほどけ、またどこかへと巡っていった。

 

夜が深くなるほど、音は静けさを増していった。

耳の奥に残る拍は、もはや太鼓のものではなく、内に宿る響きとなっていた。

足元の露が冷たく、指先を通して土の呼吸が伝わる。

風はやさしく、けれども確かな意志をもって、衣の裾を押し戻した。

歩みの先に、薄い霧が流れていた。

その向こうに、いくつもの灯が淡く瞬いている。

 

灯はゆっくりと滲み、形を結び、また解ける。

まるで記憶の断片のように、掴もうとするとすぐにほどけていく。

それらはどこかで見た顔にも似て、けれど誰の面影でもなかった。

影のひとつひとつが、空気の揺らぎと共に消えてゆく。

その儚さが、かえって胸を満たしていった。

 

やがて、坂を下る音がした。

自分の足音が、濡れた落葉を踏みしめて低く鳴る。

葉の一枚ごとに、秋の色が残っている。

赤でもなく、黄でもなく、光を失う寸前の褪せた炎。

それが地を覆い、空を染め、世界をゆっくりと眠りに誘っていた。

 

遠くで、再び音がした。

今度はかすかな唄声のようでもあった。

誰かが、もういない誰かに呼びかけるような声。

風がそれを攫い、川のように運んでゆく。

その旋律が夜気に溶け、やがてすべてがひとつの息となって漂った。

 

足を止めると、世界が沈黙した。

ただ、風だけが動いている。

その流れに身を委ねると、かすかに温かなものが頬を撫でた。

それは焚かれた灯の余熱か、あるいは見えぬ誰かの手の名残か。

目を閉じると、闇の奥に微かな輪が浮かんだ。

淡い光の輪。

夜の底で、人々が踊り続けていたあの輪と同じ形をしていた。

 

その輪が、静かに脈を打つ。

ひとつ、ふたつ。

拍と共に息が合わさり、身体がそれに応えるようにわずかに揺れる。

そこには意志も目的もない。

ただ、すべてが同じ調べの上で生きているという確信だけがあった。

それは言葉よりも確かで、名よりも深く、声なき声で世界を包んでいた。

 

目を開けると、霧は消えていた。

空は淡く、夜と朝の境がにじむ。

山の稜線にわずかな光が滲み、鳥の影が一瞬、空を横切った。

風の匂いが変わり、冷たさの奥に新しい息づかいを感じた。

土の色がわずかに明るみ、川のせせらぎが遠くで響いた。

そこに流れる音は、昨夜の調べの続きを思わせた。

 

振り返っても、あの輪はもうなかった。

灯も、影も、すべてが夜明けの光に溶けている。

けれど、心の奥ではまだその音が回り続けていた。

歩みを進めると、落葉がまた低く鳴り、朝の匂いが胸を満たす。

遠くの空で、雲が薄く伸び、光がその隙間を縫うようにして差し込んでくる。

 

呼吸のたびに、世界が少しずつ新しくなっていく。

その変化は目には見えないが、確かに感じられた。

夜と朝がほどけ合い、光と影が入れ替わるその刹那、かすかな声が、風の奥から響いた気がした。

それは誰かの名でもなく、祈りでもない。

ただ、輪の中で交わされた沈黙の続き。

秋の終わりと始まりを結ぶ、微睡みの声。

 

その声は、やがて暁に溶けて消えた。

けれども、心の底ではまだ、あの拍が確かに息づいていた。

 

朧夜の輪廻は、今日もまた静かに巡っている。




朝がすっかり降りていた。
露に濡れた草の先が光を抱き、ひとつひとつの粒が世界の目覚めを映している。
風はもう冷たくない。
頬を撫でるその流れの中に、微かな拍の残り香があった。

足元の影が伸びてゆく。
その形が、どこかで見た輪のように見えた。
けれど、目を凝らすほどに淡く溶け、やがて土の色へと還っていく。

空には白い雲が流れ、鳥の声が遠くで響いた。
その声が風と混じり合うと、ふと、昨夜の調べが胸の奥で息を吹き返した。
太鼓の音、笛の声、衣擦れの囁き。
すべてがひとつの呼吸となって、世界のどこかでまだ巡っている。

歩き出す。
背に当たる光はやわらかく、地の温もりが足裏から伝わる。
音はもう聞こえない。
けれども、静けさの底では、あの輪がいまもゆっくりと回り続けている気がした。

秋の終わり、微睡みの声は暁にほどけ、また次の季へと息を継ぐ。
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