泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白い息が空に溶けていくとき、私はひとつの扉を開けた。

音を失った大地、
語らぬ森、
そして凍りついた湖。

そこには、時間さえも凍る静けさがあった。


0042 氷の森の声

目覚めたように、雪が軋んだ。

足元から広がる音は、生きものの寝息のように柔らかく、けれど確かに、この大地がまだ眠っていないことを告げていた。

ここでは、すべてが白に覆われている。空も、地も、心までもが。

けれど、その白は決してひとつではなかった。

 

灰に似た冷たい白。

陽に透ける、淡い乳色の白。

そして、足元をすり抜けていく風のような、薄く乾いた白。

 

森は遠くに見えた。

 

葉をすべて落とし、凍てついた指先のように枝を天に伸ばしている。

凍りついた湖面をゆっくりと歩くと、雪が跳ねるたび、どこからか囁くような音が届いた。

まるで誰かが、氷の下で昔話を続けているようだった。

 

湖の中心に近づくにつれ、風が肌を引っかいた。

水はすでに、凍てて久しい。

分厚い氷の下では、魚たちが静かに身を寄せ合いながら、世界の鼓動を聴いている。

彼らの鼓動は、確かにまだ続いている。

だが、その姿は氷の厚みに隔てられ、誰の目にも映らない。

けれど、凍った湖の上に腰を下ろし、じっと耳を澄ませば、遠く、微かに、音が聴こえてくる。

 

かすかな水のうねり。

時折響く、氷がきしむ低い悲鳴。

 

そして、雪が舞い落ちる静けさの中に、息を潜めて佇むものたちの気配。

 

氷に穿たれた小さな穴は、異界への目だった。

透き通った空気のなか、ひとつ、またひとつと小さな影が揺れ、そしてまた消えていく。

水の中の魚は、音を持たない夢のようだった。

氷上に座す者は、その夢とつながろうと、じっとただ、そこにいた。

 

まるで、遥か昔から変わらぬ儀式のように。

 

やがて太陽が、白の大地に金を散らした。

 

それは熱ではなく、光の形で訪れた。

ひととき、氷の世界が溶ける。

溶けるのではなく、ほどけていく。

結ばれていた冷たさがほどけて、静かな温もりが、地の底からわずかに滲んでくる。

 

雪の反射は、まるで幾千の鏡が空を映しているようだった。

空には雲ひとつなく、ただ青が、冷たいまま広がっている。

冷たさを拒まず、ただそのままに受け入れている青。

 

そして、その下で、私は歩き続けていた。

 

湖の縁を辿り、また森へと向かう道。

そこは誰かが踏みしめた痕跡の上に重ねていく、白の廊下だった。

けれど、その足跡もまた、次の雪であっけなく消える。

だから誰も、この地にいた証を残せない。

 

それでも、人は来る。

毎年、雪の深まるこの季節に、白の彼方へと吸い寄せられるようにして。

 

なぜなのかと、思いかけるが、答えは風にさらわれていった。

おそらく、ここには名も記憶も要らないのだ。

あるのはただ、白い大地と、氷の下で息づく小さな命と、じっと待つ時間の重みだけ。

 

森に入る頃には、雪はもう胸の高さまで積もっていた。

枝々は霜に縁取られ、まるで水晶を咲かせたかのように、静かに光っている。

足を止めると、空気の中から音が消えた。

音が消えるということは、耳を澄ませるということではない。

音そのものが、この空間から脱けてしまうということだ。

 

その無音の中で、風が枝を揺らした。

小さな氷片がはらはらと落ちて、肩に触れた。

それは誰かの手紙のようだった。

長い長い旅の果てに届いた、たった一行の手紙。

だが、読み解く言葉は持たずとも、その重みは伝わってきた。

 

ここは、終わりのない白の国。

季節が忘れられ、時間さえも凍りついた世界。

 

だがそれでも、歩みを止めることはできなかった。

 

なぜなら、この地には、記憶よりも深いものが眠っている。

言葉にならない想い。

手に入らない約束。

そして、失われたものたちの、かすかな息づかい。

 

それらはすべて、氷の森の中に棲んでいる。

声なき声として。

風の中の記憶として。

凍りついた湖面に、そっと触れる指先として。

 

白は、忘却の色ではない。

白は、すべてを抱きしめる色だった。

 




雪の中で見た夢は、醒めることがなかった。

氷に閉ざされたその場所には、
命の気配と、永遠に消えぬ白の記憶が静かに息づいていた。
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