泡沫紀行   作:みどりのかけら

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ひとつの夏の夜を、歩きながら拾い集めている。
風の匂いはまだ熱を含み、土の上を流れる空気が、遠い記憶のように肌を撫でていった。
どこからか、水の音が聴こえる。
その響きは、まるで心の底で静かに灯る火のように、消えずに揺れていた。

どれほどの道を歩いてきたのかもわからない。ただ、足裏に残る柔らかな湿りと、空を流れる気配だけが確かだった。
夜の奥へと続くこの道が、いつか何かを思い出させてくれるような気がした。
それが夢の名残であれ、忘れかけた祈りであれ、構わない。

ただ、この闇の先にある光を、いまはまだ知らない焔の声を、その微睡みの果てで、ひとつ拾いたかった。


0428 川面に映る焔の妖精たち

足裏を撫でる砂の感触が、夜気に溶けていた。

水辺へと続く細い道は、かすかな光を帯びている。

草の葉が囁くたび、その音は心の奥で静かに波を立てた。

遠くで虫が一つ、ためらうように声を落とす。

その余白に、夏の匂いが滲んでゆく。

 

流れの音は、低く、穏やかで、まるで眠りの中にある心臓の鼓動のようだった。

両の手で掬った水は冷たく、指の間をするりと逃げた。

掌から零れた滴が、夜気の底へ沈むたび、見えない星が一つ消えるように感じた。

 

風が渡り、湿った空気が頬を撫でた。

上流から流れてくる気配がある。

微かな焦げの香り、甘やかな火薬の名残。

空を仰ぐと、闇の奥で小さな光が瞬いた。

ひとつ、またひとつ。

花弁のように開き、やがて崩れ、溶けて落ちてゆく。

 

その瞬間、川面が息をした。

黒い水鏡が、焔の花をいくつも抱え込む。

赤、橙、金、そしてかすかな青。

水の上で揺れるそれらは、まるで遠い昔に失くした夢の断片のようだった。

風が吹くたび、光はほどけ、再び集まり、またほどけていく。

 

音が遅れて届く。胸の奥まで響く低い衝撃が、静寂を優しく叩いた。

夜の空気が震え、遠くの山影まで光が走る。

瞬きのたび、闇が明るみに押し返される。

だが次の瞬間には、闇がすぐにそれを包み込んでしまう。

その繰り返しが、まるで呼吸のようだった。

 

足元の草が、花火の明滅に合わせて金の粒を宿す。

指先で触れると、露が弾けるように消えた。

風の流れが変わる。

どこかで水鳥が羽ばたく音がして、静かな波紋が岸辺を撫でた。

夜の色が深まっていく。

 

光と闇の境で、ふと胸の奥が疼いた。

何かを思い出しかけたような、あるいはまだ知らぬ何かに触れかけたような感覚。

花火が上がるたびに、その輪郭が少しずつ明るくなる。

 

火の花は空で散り、水に映り、そして風に溶けた。

水面に残る微かな光の粒が、まるで小さな命のように瞬いている。

それを見つめていると、時間の流れがゆっくりと緩む。

音も、風も、光も、すべてがひとつの眠りの中へと沈んでいく。

 

手を伸ばせば届きそうで、けれど決して触れられない。

その距離の中に、言葉にならぬ温度があった。

胸の奥で何かがほどけ、静かに川の音へと溶けていった。

 

やがて火の音が遠のき、夜は再び静けさを取り戻した。

闇は柔らかく、まるで深い眠りの毛布のようにあたりを包んでいる。

先ほどまで空を染めていた焔の色が、まだ瞼の裏に残っていた。

光の余韻が、体の奥でかすかにゆらめく。

 

水辺に腰を下ろす。

冷たい土の感触が、掌から背骨へと伝わってゆく。

湿った匂いが鼻をかすめ、遠くで蛙の声がひとつ響いた。

静けさは孤独ではなく、むしろこの身の輪郭を確かにするようだった。

風が通り抜けるたび、草が音を立て、星々がそれに呼応するように瞬く。

 

見上げた空は、淡い煙の残り香を抱いている。

あれほど鮮やかだった焔の花が散り、跡形もなく溶けてしまったことが、なぜか信じられなかった。

けれど、川面を覗けば、そこにはまだわずかな光が漂っていた。

流れに逆らわず、ゆるやかに漂う火の粉たち。

まるで夜の底で眠りを拒む小さな魂のようだった。

 

指先を伸ばすと、水が静かに揺れた。

光の粒が一瞬震え、形を変えて消えていく。

その跡に残る冷たさが、胸の奥に沁みていく。

空気の中に、微かな火薬の香りがまだ漂っている。

それは燃え尽きた命の記憶のように、かすかに甘く、儚かった。

 

歩き出す。

足音が水辺の砂を押し、湿った音を立てる。

遠くで風が草原を渡り、その波がこちらへと寄せてくる。

闇は深いが、恐れはなかった。

むしろ、この世界の静けさに抱かれるような安堵があった。

 

しばらく歩くと、川の流れがひときわ緩やかになる場所へ出た。

そこには、光の名残がひとつ、流れに取り残されていた。

ゆらゆらと漂うその灯は、まるでひとの息のように脆く、それでいて消えない意志を秘めていた。

膝をつき、その光を見つめる。

 

何も語らずとも、胸の内で何かがほどけていくのがわかる。

熱ではなく、冷たさでもなく、ただ穏やかに流れるもの。

遠い記憶の中で、誰かの笑い声がかすかに響くような気がした。

けれどその姿はすぐに霧に溶け、川のざわめきに紛れていった。

 

光はやがて水とともに流れてゆく。

その行方を追ううちに、東の空がかすかに白みはじめた。

夜が終わりを告げる。

川面の影が淡くほどけ、流れの輪郭が露わになる。

肌に触れる風が、夜の湿り気を手放し、少しだけ乾いていた。

 

最後の火の粉が、水の底でふっと消えた。

その瞬間、胸の奥に静かな音が生まれた。

それは言葉にもならず、形も持たない。

ただ確かにそこに在る、ひとつの微睡みの声だった。

 

夜が明けてゆく。

水の匂いが変わり、草の上に朝の露が宿る。

足元の影が淡く伸びて、ひとつの夜が静かに終わった。




朝の気配が、川の面をやわらかく撫でていた。
夜の名残を抱いた水は、淡い金色を映して流れていく。
焔の花が咲いた場所には、いまはただ透明な風だけがある。
空気の奥で、かすかに火薬の香りが揺れ、すぐに消えた。

その一瞬が、すべての始まりと終わりのあいだにあったように思う。
光は空へ、音は大地へ、そして自分はその境のわずかな隙間に立っていた。

あの夜、川面に映っていた焔たちは、確かに生きていた。
消えても、流れても、心の奥でいまも瞬いている。
触れられぬままの美しさが、こんなにも深く世界を照らすのだと知った。

歩き出す。
足跡の向こうで、朝がほどけていく。
微睡みの声は、もう聞こえない。
けれど、その静けさの中にこそ、確かな息づかいがあった。
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