泡沫紀行   作:みどりのかけら

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砂を踏むたび、音が消えていった。
波の声も、風の囁きも、すべてが遠ざかる。
世界がひとつの深い呼吸の中に沈み、その静けさの底で、心だけが微かに震えている。

夜の海は、まるで誰かの眠りの中のようだった。
形を持たぬ闇が、かすかな光を孕み、その奥に、まだ見ぬ景色の鼓動があった。
歩き出す。
足もとで冷たい砂がわずかに動く。
この夜の向こうに、名も知らぬ炎の群れが待っている気がした。

風が頬を撫で、潮の香がひときわ強くなる。
その瞬間、世界がゆっくりと溶け始めた。


0429 漆黒に浮かぶ炎の船団

足裏にぬめるような湿りを感じながら、砂の上を歩く。

潮の香が夜気の底に沈み、胸の奥で波の音が反響していた。

薄い靄が水平線を包み、海と空の境を曖昧にしている。

どちらが上で、どちらが深みなのか、もう分からなかった。

 

風は眠っている。

海面は、息を潜めたように静かだった。

ただ遠くで、木を軋ませるような微かな音がする。

その音を辿るように歩くと、黒の中に光の芽がひとつ、ゆらりと瞬いた。

 

炎が水の上に浮かんでいた。

それはひとつの星のようであり、また、誰かの祈りの灯のようでもあった。

やがてその灯は増え、海の果てに連なる。

暗闇の波間に、無数の灯が生まれては揺れ、まるで夜の底から船が浮かび上がるようだった。

 

音が遅れて届く。

乾いた破裂音が空を割り、光が水面に散った。

その瞬間、漆黒の海が目を覚まし、金の粉をまき散らすように煌めいた。

花のような光の輪がいくつも開き、ひとつひとつが空へと溶けていく。

 

潮騒の合間に、微かな熱を感じる。

頬に触れる風が、わずかに温かい。

光が頬を撫で、瞼の裏に残像を焼きつける。

閉じた目の中で、赤と金がまだ燃えていた。

 

足もとに波が寄せる。

その白い縁が炎の明滅を映し、儚い光の帯を作ってはほどける。

水に溶けた火が、まるで夜を舐めるように消えていった。

海と空の境はもう完全に失われ、世界は光と音の粒に満たされていた。

 

ひとつの大きな音が轟いた。

胸の奥まで響く低い鼓動のような震え。

光が頭上で弾け、群青の帳を焦がした。

その破片が散り、静寂が再び押し寄せる。

焼け残った煙が薄く漂い、焦げた匂いが夏の闇を満たした。

 

足跡のあとに、しずくが落ちた。

潮か汗か涙かもわからない。

指で拭うと、塩の味がした。

遠くでまたひとつ、光が咲く。

その花は他のどれよりもゆっくりと開き、長く尾を引いて消えていった。

 

風が戻る。

炎の匂いを撫で、砂を微かに鳴らす。

その音が、眠りに落ちる直前の鼓動のように、一定のリズムを刻んでいる。

海の向こうで光が絶え、闇が少しずつ戻ってくる。

残ったのは、熱を帯びた空気と、波の音と、心の奥に残る淡いざわめきだけだった。

 

掌を開くと、そこにも光の残滓があった。

水滴の中で、消えかけた炎がまだ揺れている気がした。

その小さな揺らめきが、夜の深みに溶けていく。

歩き出す。

足音が砂を押し、闇に吸い込まれていった。

 

潮の香はまだ濃く、夜の肌に溶けていた。

耳の奥に残る音が、記憶のように静かに反響している。

歩くたび、足もとで砂が小さく鳴き、湿った風が裾を撫でた。

海の奥では、さっきまでの光の余韻がまだ脈を打っているようだった。

 

灯の消えた水面は、まるで焼け跡のように黒く、その中を漂う白い煙だけが、夜の存在を確かめる印のように揺れている。

空には雲が流れ、ところどころに星が見えた。

その星々も、先ほどまでの火の花を見送るように、淡く震えていた。

 

遠く、波が岩を撫でる音がする。

その音がやけに近く感じられた。

歩くほどに空気は冷え、肌の上で夜が形を持ちはじめる。

指先に触れる風は湿って、まるで誰かの息のように重かった。

 

かすかな光が残る水平線を眺めながら立ち止まる。

さきほどまで燃えていた炎たちは、どこへ還っていったのだろう。

海の底か、それとも空の深みか。

ひとつの終わりが、次の始まりを呼ぶように思えた。

 

砂の上にしゃがみ、手のひらで波を掬う。

冷たい水が掌をすり抜けるたび、その中にわずかに光る粒が混じっているように見えた。

夜の残響が、透明な形で流れていく。

耳を澄ますと、微かな声が聞こえた気がした。

それは風の音とも、波のさざめきともつかず、ただ穏やかに心の底を撫でる声だった。

 

空がわずかに明るむ。

深い藍の底から、薄桃の光が滲み出してくる。

海の輪郭が浮かび、波が銀色を帯びた。

夜と朝が溶け合う境目で、世界はひととき、息をひそめている。

 

その静けさの中に、まだ熱が残っていた。

先ほど見上げた火の花の名残が、胸の奥でゆっくりと燃えている。

それは歓びでも悲しみでもない、ただ生の痕のようなもの。

確かにここにいたという証のように、脈打つように微かに灯っていた。

 

足を進める。

光が少しずつ増え、潮風が柔らかく変わっていく。

海面の揺らぎに朝の光が混じり、金とも白ともつかぬ輝きが揺れた。

夜の余韻が遠のいていく。

けれど、その消えゆく気配の中にこそ、静かな安らぎが潜んでいた。

 

振り返ると、海の上にまだひとつだけ光が残っていた。

それは最後まで燃え残った炎か、あるいは朝のはじまりを告げる最初の光か。

その区別ももうどうでもよかった。

目を細めると、光はゆっくりとほどけていき、海と空の境に吸い込まれていった。

 

足もとの砂が乾き始める。

夜露の粒が陽に触れ、細い虹をつくって消える。

息をひとつ吐く。

潮の香が薄れ、かわりに草の匂いが混じる。

遠くで鳥の声がひとつ響いた。

 

あの光たちは、もういない。

けれど、瞼を閉じれば、まだ微かに、炎の船団が漆黒の海を進んでいるのが見えた。

音もなく、声もなく、ただ静かに、夜と朝の狭間を渡っていく。

 

その光景が胸の奥でほどけていく。

残るのは、微睡みのような余韻と、肌に染みついた潮の記憶だけだった。




夜が明けた。
光が波のひとつひとつに宿り、闇を抱えていた海が、静かに息を吹き返す。

空気の中に、まだ火薬の匂いがわずかに残っている。
その香りが胸の奥をくすぐり、遠くで聞いた花の音を思い出させた。

足跡は潮にさらわれ、何も残っていない。
それでも、肌の上にはあの光の熱が残っていた。
見上げた空は澄み、昨夜の闇を知るものだけが持つ、深い透明さで満ちていた。

目を閉じると、波の奥から微睡みの声が呼ぶ。
その声は、もう悲しみでも憧れでもなく、ただ穏やかに、心をほどく響きだった。

光がまぶたを透かして差し込む。
歩き出す。
風が髪を揺らし、そのすべてが、もうひとつの夜明けの始まりのように思えた。
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