そこには、語るべき言葉も、見送る眼差しもない。
ただ、静けさが永遠のように広がっているだけだった。
白く焼けた地面に、影一つ落ちていない。
足元の砂利が、やや湿り気を帯びていたのは、昨夜、雲が風の合間を縫って少しだけ雨を撒いていったのだろうか。
けれど、その痕跡も、朝の光に炙られ、ほとんどが忘れられたように乾ききっていた。
歩いている。
道はひたすらにまっすぐで、両脇には腰より高い草が風に揺れている。
広がる野は何かを育んでいるようでいて、何も応えない。花は咲いているが声がない。鳥はいるが歌わない。
ただ、空があった。
それも、音を消してしまうほどの、巨大で、蒼い空だ。
それは空というより、ひとつの境界線だった。
世界の底と天の果てを繋ぎ、その間に、人というわずかな存在を差し込む隙もなく、ただそこに在ることを許すだけの、静かな赦しのような広がりだった。
背には、もう遠くに小さな丘の列。
その背中も、空の蒼を少し分け与えられて、青く揺れていた。
地平は消えていた。
遠すぎて見えないのではない。
ただ、どこまでが空でどこまでが大地なのか、その線を、誰も思い出せなくなるのだ。
色が、風が、匂いが、そして時が、すべてをやさしく溶かしてしまう。
風が、歩く者の影を追い抜いていく。
それはまるで、見えないものが先に旅をしているかのようで、どこか心を急かされた。
だが、ここでは急ぐ理由はない。
どこへ向かっても、ただ大地がつづく。
それが白く光る時間のなかで、すべてを迎え入れ、すべてを見送ってゆく。
道の両脇には、誰が敷いたのか、ほそい石畳の列が並走していた。
それは道というより、記憶の境のように、光と影を分けていた。
ときおり、小さな羽虫がその上をかすめていく。
風が途絶えたわずかな隙に、静寂が拍動する。
鳥の羽音もない。ただ、自分の足音だけが、この世界で生きている証になる。
空を見上げれば、雲がある。
けれど、それはまるで止まっているようにさえ思える。
大地があまりに大きすぎて、雲もまた、どこへも動けずにいるのかもしれない。
白い塊は、わずかな呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと形を変える。
それはまるで、忘れられた記憶のひとかけらが、空のどこかでまだ生きていたかのように。
やがて、ゆるやかな登り坂があらわれる。
それは「丘」と呼ぶにはあまりに穏やかで、けれど確かに、歩を進めるごとに景色が押し下げられていく。
風が少しだけ冷たくなる。体の重さが増す。
登り切ると、世界はまた別の顔を見せた。
そこには、果てというものがなかった。
どこまでも…どこまでも…
ただ草原がつづいていた。
薄く蛇行する道筋だけが、空と地の境を縫い合わせるように走り、やがて見えなくなった。
木はない。岩もない。
ただ、風がいる。
風がすべてを語り、すべてを撫で、すべてを忘れさせる。
空の色が変わる。
太陽が傾き、黄金の光が、大地の色を深めていく。
白だったはずの草が、ほのかに朱を帯び、やがて燃えるような橙に変わってゆく。
それでもなお、何も音がしない。
草が擦れる音さえも、いまは遠ざかってしまった。
風が吹くたび、光だけが揺れる。
まるで時間そのものが、ここでは静かに波打っているだけのように思える。
歩く足が止まる。
視線の先には、ただ、終わりのない空と地。
その狭間に、いま、自分がいるという感覚。
それは存在というよりも、何か古い記憶のなかに紛れこんでしまったような不確かさだった。
ここには、時も名もない。だからこそ、この風景は永遠なのだ。
ひとつの命が、あまりにも小さく感じられる。
けれど、その小ささが、今だけは確かな尊さになる。
世界が大きくなりすぎたわけではない。
ただ、自分がいま、真の広さというものを見つめているだけだ。
遠くで、ひとすじの風が草を倒す。
それはまるで、見えない誰かが、そこに寝そべって空を見上げているようだった。
その姿に、自分の影が重なってゆく。
もう、歩かなくてもよかった。
この静けさのなかで、しばし目を閉じる。
風は優しく、草はやわらかく、大地はすべてを受け入れてくれた。
世界が音を失い、空がすべての色を吸い込み、道が、ゆるやかに蒼に消えていった。
歩いた記憶が、風となって振り返る。
名もなく、終わりもない景色は、
心の奥にそっと根を張り、
いつかまた、誰かの歩みに寄り添うだろう。