泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の音さえ遠く、影が立ち止まるほどの場所がある。
そこには、語るべき言葉も、見送る眼差しもない。

ただ、静けさが永遠のように広がっているだけだった。


0043 蒼天の回廊

 

白く焼けた地面に、影一つ落ちていない。

 

足元の砂利が、やや湿り気を帯びていたのは、昨夜、雲が風の合間を縫って少しだけ雨を撒いていったのだろうか。

けれど、その痕跡も、朝の光に炙られ、ほとんどが忘れられたように乾ききっていた。

 

歩いている。

道はひたすらにまっすぐで、両脇には腰より高い草が風に揺れている。

広がる野は何かを育んでいるようでいて、何も応えない。花は咲いているが声がない。鳥はいるが歌わない。

 

ただ、空があった。

それも、音を消してしまうほどの、巨大で、蒼い空だ。

それは空というより、ひとつの境界線だった。

世界の底と天の果てを繋ぎ、その間に、人というわずかな存在を差し込む隙もなく、ただそこに在ることを許すだけの、静かな赦しのような広がりだった。

 

背には、もう遠くに小さな丘の列。

その背中も、空の蒼を少し分け与えられて、青く揺れていた。

 

地平は消えていた。

 

遠すぎて見えないのではない。

ただ、どこまでが空でどこまでが大地なのか、その線を、誰も思い出せなくなるのだ。

色が、風が、匂いが、そして時が、すべてをやさしく溶かしてしまう。

 

風が、歩く者の影を追い抜いていく。

それはまるで、見えないものが先に旅をしているかのようで、どこか心を急かされた。

だが、ここでは急ぐ理由はない。

どこへ向かっても、ただ大地がつづく。

それが白く光る時間のなかで、すべてを迎え入れ、すべてを見送ってゆく。

 

道の両脇には、誰が敷いたのか、ほそい石畳の列が並走していた。

それは道というより、記憶の境のように、光と影を分けていた。

ときおり、小さな羽虫がその上をかすめていく。

風が途絶えたわずかな隙に、静寂が拍動する。

鳥の羽音もない。ただ、自分の足音だけが、この世界で生きている証になる。

 

空を見上げれば、雲がある。

 

けれど、それはまるで止まっているようにさえ思える。

大地があまりに大きすぎて、雲もまた、どこへも動けずにいるのかもしれない。

白い塊は、わずかな呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと形を変える。

それはまるで、忘れられた記憶のひとかけらが、空のどこかでまだ生きていたかのように。

 

やがて、ゆるやかな登り坂があらわれる。

それは「丘」と呼ぶにはあまりに穏やかで、けれど確かに、歩を進めるごとに景色が押し下げられていく。

風が少しだけ冷たくなる。体の重さが増す。

登り切ると、世界はまた別の顔を見せた。

 

そこには、果てというものがなかった。

 

どこまでも…どこまでも…

 

ただ草原がつづいていた。

 

薄く蛇行する道筋だけが、空と地の境を縫い合わせるように走り、やがて見えなくなった。

 

木はない。岩もない。

ただ、風がいる。

 

風がすべてを語り、すべてを撫で、すべてを忘れさせる。

 

空の色が変わる。

太陽が傾き、黄金の光が、大地の色を深めていく。

 

白だったはずの草が、ほのかに朱を帯び、やがて燃えるような橙に変わってゆく。

それでもなお、何も音がしない。

草が擦れる音さえも、いまは遠ざかってしまった。

風が吹くたび、光だけが揺れる。

まるで時間そのものが、ここでは静かに波打っているだけのように思える。

 

歩く足が止まる。

 

視線の先には、ただ、終わりのない空と地。

その狭間に、いま、自分がいるという感覚。

それは存在というよりも、何か古い記憶のなかに紛れこんでしまったような不確かさだった。

ここには、時も名もない。だからこそ、この風景は永遠なのだ。

 

ひとつの命が、あまりにも小さく感じられる。

けれど、その小ささが、今だけは確かな尊さになる。

世界が大きくなりすぎたわけではない。

ただ、自分がいま、真の広さというものを見つめているだけだ。

 

遠くで、ひとすじの風が草を倒す。

それはまるで、見えない誰かが、そこに寝そべって空を見上げているようだった。

その姿に、自分の影が重なってゆく。

 

もう、歩かなくてもよかった。

 

この静けさのなかで、しばし目を閉じる。

風は優しく、草はやわらかく、大地はすべてを受け入れてくれた。

 

世界が音を失い、空がすべての色を吸い込み、道が、ゆるやかに蒼に消えていった。

 




歩いた記憶が、風となって振り返る。

名もなく、終わりもない景色は、
心の奥にそっと根を張り、
いつかまた、誰かの歩みに寄り添うだろう。
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