泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足音だけを連れて、深い森を抜けた。
誰にも名づけられる前の景色が、そこにはあった。

天と地のあわいに揺れる白――

それは声なき歌。
ひとりきりで出会った、その静寂の瞬間を、私は物語に編みとどめる。


0044 夢幻の滝音

深く濃く、森が揺れていた。

 

音は、遥か彼方から流れてくる。

まだ視界にその姿をとらえていないのに、確かなものとしてそこにある。

 

それは、鼓動のように静かに、けれど否応なく歩を早めさせる律動だった。

柔らかく、重く、胸の内奥を叩く音。

目に見えぬその源に引かれながら、私はひたすら、朽ちかけた木の橋を渡り、崩れかけた石の小道を登った。

 

樹々のあわいに、湿った風が吹き抜けていく。

葉の一枚一枚が、まるで遠い時間を語りかけるように揺れる。

灰緑の苔はすべてを包みこみ、倒れた木々の骨にさえ、眠ることを許していた。

 

道はやがて細くなり、岩肌を抱くように折れ曲がっていく。

滑りやすい苔の感触が、裸足の感覚を通して、忘れていた野生の記憶を呼び起こす。

 

背後には風のざわめき。

左右には崖と深い谷。前方には、白い靄が、薄膜のように揺れていた。

 

そして、その瞬間が訪れる。

 

霧の幕がふと裂け、視界の奥に、音の主が姿を現した。

 

それは、空から降る白だった。

岩壁に添い、無数の糸がほとばしる。

 

一筋ではない。

二筋でもない。

目に映るすべてが流れそのものであり、風で踊る白布のように、やわらかく、けれど力強く、宙へと舞い上がっているようでもあった。

 

滝とは、本来こういうものだったのかもしれない。

 

ただ水が落ちるのではない。

それは、時の降る音だった。

永遠が、垂直に流れ落ちてくる音だった。

 

足元に立つ私は、かすかな水音に包まれていた。

見上げる視線の先には、遥か天上から流れくる白のしぶき。

あの高さを、目で測ろうとするのは、意味をなさない試みだった。

 

高さは、数字ではなかった。

それは畏怖の感覚であり、静寂の広がりだった。

 

かつて、誰かがここを「羽衣」と呼んだのなら、それはきっと、羽根のように軽く、この世のものとは思えない繊細さに触れたからだろう。

けれど、近づけばその印象は反転する。

水は岩を叩き、岩は砕かれ、砕けた石はまた水に磨かれながら、遥か下方へと転がっていく。

 

滝壺などというものは存在しない。

ただ、絶え間ない落水と飛沫が、小さな光の粒となって宙に舞い、周囲の空気を濡らしていく。

 

風がある。滝の吐息。

それは言葉ではなかった。

ただ、すべてを包む、白の呼吸だった。

 

岩の裂け目に沿って、ひとつの小道がある。

そこを踏みしめ、さらに奥へ進む。

高く、高く登れば、やがて水の落ちる起点に近づくことができると、誰かが言っていた気がする。

 

けれど、それは愚かな願いかもしれない。

 

あの白は、地上と天とをつなぐ境界にある。

人が足を踏み入れようとすれば、白は霧となって逃げていく。

けれど私は、登った。白に包まれたくて。

白に触れたくて。

 

登るごとに、風が変わる。

重く、鋭くなる。

苔むした段差を、手を突いてよじ登る。

滝音がすぐ耳の横をかすめていく。

まるで囁き声のようだった。

けれど、やはりそこに言葉はなかった。言葉の代わりに、ただ水がある。

 

やがて、私はある地点に辿り着いた。

視界の半分が滝で満たされる場所。

崖のへりにしゃがみこみ、無言で流れを見つめる。

岩に反射した光が、まるで薄い鱗のように空中を舞っている。

滴る水音が、瞼の裏にまで染みこんでくる。

 

どれほどの時を、ここで過ごしただろうか。

 

滝は、ただそこに在るだけだった。

誰のためでもない。

何の意味を持つでもない。

ただ、落ちてくる。

 

天から地へ。

 

水から霧へ。

 

霧から風へ。

 

私は立ち上がり、もう一度見上げた。

白は、揺れていた。

滝というより、ひとつの生き物のようだった。

静かに息をし、緩やかに身をくねらせ、目に見えない羽を震わせながら、空の裂け目から舞い降りてくる。

 

この世界には、まだ人の手が触れていない「時」がある。

それは記録されず、語られず、けれど確かに存在し続ける時。

 

ここは、そのひとつだった。

白の記憶は、誰かに語られるためではなく、ただ風と共に、永遠を抱いて眠っていた。

 





立ち去ったあとも、耳に残るのはあの音だった。

言葉ではすくえぬ、ただひたすらに流れ落ちる気配。
この地は、記憶に触れる滝だ。

見上げるたび、心の奥に触れるような静けさが、今も胸の底で揺れている。
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