誰にも名づけられる前の景色が、そこにはあった。
天と地のあわいに揺れる白――
それは声なき歌。
ひとりきりで出会った、その静寂の瞬間を、私は物語に編みとどめる。
深く濃く、森が揺れていた。
音は、遥か彼方から流れてくる。
まだ視界にその姿をとらえていないのに、確かなものとしてそこにある。
それは、鼓動のように静かに、けれど否応なく歩を早めさせる律動だった。
柔らかく、重く、胸の内奥を叩く音。
目に見えぬその源に引かれながら、私はひたすら、朽ちかけた木の橋を渡り、崩れかけた石の小道を登った。
樹々のあわいに、湿った風が吹き抜けていく。
葉の一枚一枚が、まるで遠い時間を語りかけるように揺れる。
灰緑の苔はすべてを包みこみ、倒れた木々の骨にさえ、眠ることを許していた。
道はやがて細くなり、岩肌を抱くように折れ曲がっていく。
滑りやすい苔の感触が、裸足の感覚を通して、忘れていた野生の記憶を呼び起こす。
背後には風のざわめき。
左右には崖と深い谷。前方には、白い靄が、薄膜のように揺れていた。
そして、その瞬間が訪れる。
霧の幕がふと裂け、視界の奥に、音の主が姿を現した。
それは、空から降る白だった。
岩壁に添い、無数の糸がほとばしる。
一筋ではない。
二筋でもない。
目に映るすべてが流れそのものであり、風で踊る白布のように、やわらかく、けれど力強く、宙へと舞い上がっているようでもあった。
滝とは、本来こういうものだったのかもしれない。
ただ水が落ちるのではない。
それは、時の降る音だった。
永遠が、垂直に流れ落ちてくる音だった。
足元に立つ私は、かすかな水音に包まれていた。
見上げる視線の先には、遥か天上から流れくる白のしぶき。
あの高さを、目で測ろうとするのは、意味をなさない試みだった。
高さは、数字ではなかった。
それは畏怖の感覚であり、静寂の広がりだった。
かつて、誰かがここを「羽衣」と呼んだのなら、それはきっと、羽根のように軽く、この世のものとは思えない繊細さに触れたからだろう。
けれど、近づけばその印象は反転する。
水は岩を叩き、岩は砕かれ、砕けた石はまた水に磨かれながら、遥か下方へと転がっていく。
滝壺などというものは存在しない。
ただ、絶え間ない落水と飛沫が、小さな光の粒となって宙に舞い、周囲の空気を濡らしていく。
風がある。滝の吐息。
それは言葉ではなかった。
ただ、すべてを包む、白の呼吸だった。
岩の裂け目に沿って、ひとつの小道がある。
そこを踏みしめ、さらに奥へ進む。
高く、高く登れば、やがて水の落ちる起点に近づくことができると、誰かが言っていた気がする。
けれど、それは愚かな願いかもしれない。
あの白は、地上と天とをつなぐ境界にある。
人が足を踏み入れようとすれば、白は霧となって逃げていく。
けれど私は、登った。白に包まれたくて。
白に触れたくて。
登るごとに、風が変わる。
重く、鋭くなる。
苔むした段差を、手を突いてよじ登る。
滝音がすぐ耳の横をかすめていく。
まるで囁き声のようだった。
けれど、やはりそこに言葉はなかった。言葉の代わりに、ただ水がある。
やがて、私はある地点に辿り着いた。
視界の半分が滝で満たされる場所。
崖のへりにしゃがみこみ、無言で流れを見つめる。
岩に反射した光が、まるで薄い鱗のように空中を舞っている。
滴る水音が、瞼の裏にまで染みこんでくる。
どれほどの時を、ここで過ごしただろうか。
滝は、ただそこに在るだけだった。
誰のためでもない。
何の意味を持つでもない。
ただ、落ちてくる。
天から地へ。
水から霧へ。
霧から風へ。
私は立ち上がり、もう一度見上げた。
白は、揺れていた。
滝というより、ひとつの生き物のようだった。
静かに息をし、緩やかに身をくねらせ、目に見えない羽を震わせながら、空の裂け目から舞い降りてくる。
この世界には、まだ人の手が触れていない「時」がある。
それは記録されず、語られず、けれど確かに存在し続ける時。
ここは、そのひとつだった。
白の記憶は、誰かに語られるためではなく、ただ風と共に、永遠を抱いて眠っていた。
立ち去ったあとも、耳に残るのはあの音だった。
言葉ではすくえぬ、ただひたすらに流れ落ちる気配。
この地は、記憶に触れる滝だ。
見上げるたび、心の奥に触れるような静けさが、今も胸の底で揺れている。