泡沫紀行   作:みどりのかけら

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朝がまだ言葉を持たないうちに歩き出す。

白く息を吐くたび、世界は静かに輪郭を取り戻す。
誰のものでもない風景が、私だけに語りかけてくる。


0045 夜明けの鏡面

 

凍てついた空気が肺に触れ、呼吸が小さく澄むたび、世界はゆっくりと淡く染まりはじめる。

朝と夜の境が、肌の上に触れる絹のように薄く、まるで夢から覚めきらないまま歩いているようだった。

 

足元は、昨夜の霜が敷きつめた銀の布。

踏みしめるたびに小さな音がして、私の存在だけがこの広い静寂に波紋を落とす。

見渡すかぎり、人の影はない。

ただ風と、遠くの羽音だけが、世界の呼吸を代弁していた。

 

木々は葉を落とし、細い枝を空へ差し伸べていた。

その姿は、天を撫でようとするようでもあり、何かを手放して祈るようでもあった。

 

闇が少しずつほどけていく。

 

空の色が深い群青から灰紫に変わり、それがやがて、乳白と薄桃の間にたゆたう時間に滑り込んでゆく。

 

夜が去り、朝が生まれる境目——

 

それは目で見えるものではなく、体の奥に沁み入るように訪れる。

 

そして、目の前の湖が姿を現す。

白く凍りかけた水面の、その中央はまだゆるく揺れていた。

音のない世界のなかで、その微かな揺らぎが唯一、時間を感じさせる。

だが不思議なことに、水は空をそのまま写していた。

 

空の色が変わるたびに、湖の表情も変わる。

まるでそこにはもう一つの空があり、私が立っているのは、その空のふちに過ぎないのではないかという錯覚すら抱かせた。

 

どこまでも白が支配するこの景色に、わずかな赤が差しこむ。

朝日がまだ地平の向こうで身を潜めている間、空は自身を炎のように染めていた。

白と赤が混じるそのグラデーションが、湖面に重なると、そこに世界が二重に広がっているようだった。

上と下、どちらが本物か分からない。

天が鏡を抱いているのか、地が空を夢見ているのか、答えはどこにもなかった。

 

風が少し強くなった。

 

岸辺の葦がささやくように揺れる。

細い影が水面に映り、そこにさざ波をつくる。

それでもなお、湖は空を映し続けていた。

まるで、すべてを記憶する意思を持っているかのように、変化すらも抱きしめながら、静かにその面を保っている。

 

突如として、羽音が空を割った。

どこからともなく現れた群れが、湖を越えて飛び立ってゆく。

その姿は翼というより、音楽のようだった。

 

風を切る音が、冷たい空気のなかに柔らかく溶けてゆく。

彼らの白い体が、朝焼けに染まった空の下を舞うとき、その動きは言葉よりも確かな祈りに見えた。

彼らは何も語らず、ただ空を描いては去っていった。

 

ひとつ、またひとつと、飛び立つ影が水面に映り、そして消えていく。

水の鏡は、それを惜しむように波紋をひろげ、やがて再び沈黙へと戻る。

鳥たちの抜けた空はますます明るくなり、東の端がようやく黄金の端を見せはじめる。

 

霧がゆっくりと立ち上り、湖の一部を白く包む。

その霞の中に、まだ眠っている者たちの羽がかすかに揺れる。

ここには命がある。

だがその命たちは、声をあげることなく、ただ気配として朝を迎えている。

 

水辺の一角に、小さな雪の丘があった。

その上に残るのは、今朝飛び立たなかった足跡。

細く、並んでいて、やがて途中で途切れている。

誰かがここにいて、そして去っていったという証。

その足跡すらも、日が昇れば溶けてしまうのだろう。

 

残るのは、ただこの静けさだけ。

まるで何も起こらなかったかのように、時は雪にすべてを戻してゆく。

 

私の足も、ついにその湖のふちに届いた。

手を伸ばしてみる。

 

冷たい空気に包まれながら、水面の一角がかすかに揺れた。

そこに映るのは、空と、鳥と、私という名の旅人。

その全てが、何かの記憶のように静かに存在していた。

誰の記憶か分からない。

それでも、この湖がすべてを映し、すべてを抱いていた。

 

ふと、ひとすじの光が湖面を射抜く。

 

太陽が、ようやく姿を見せた。

金の矢のようなその光が、白の世界をほんの一瞬だけ、柔らかな色に変える。

雪はほのかにきらめき、木々の影が長く伸びる。

その光が湖に触れると、水は炎のように揺れ、そして再び鏡へと戻った。

 

その瞬間、私は確かにこの場所にいた。

 

けれど同時に、どこにも存在しない場所に立っている気もした。

この白と光と静寂の世界が、いつか誰かの夢であり、私の旅の断片であるように思えてならなかった。

 

目を閉じると、まぶたの裏にその光景が焼きついた。

空と湖と、羽ばたいた命たち。

どれもが、永遠という言葉のなかで凍りついているようだった。

 

私はまた歩きはじめる。

 

背を向けたその湖が、いつまでも記憶のなかで朝を迎え続けるように。

 




振り返っても、何もなかったかのような静けさ。

それでも、あの湖は確かに私の中に存在している。

消えゆく景色ほど、心に深く残るのだ。
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