泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の音さえ届かぬ並木の中を、私は一人歩いた。

静寂の奥に降り積もるのは、無数の記憶と祈りのような光。
そこに現れるのは、時間の流れすら忘れた永遠の景色。


0047 緑の詠み人

 

草を分け、黙して歩む。

 

水を打ったように静まりかえった道は、まるで遠い昔から誰かを待ち続けていたように、音ひとつ漏らさず私を迎えた。

背を押す風もなければ、呼び止める声もない。

けれど、歩を進めるごとに、空気はなぜか重さを持ちはじめる。

枝の隙間から落ちる光さえ、どこか慎ましやかで、祈りのようだった。

 

道は真っ直ぐに続いていた。

両脇に並ぶ巨木たちは、すべて同じ高さ、同じ幅に育っているわけではないのに、不思議と調和を保っている。

 

幹は幾度も歳月にさらされたように深く刻まれ、風雪に耐えてきた気配を漂わせていた。

葉は、緑と黄のあわいをたゆたいながら、枝々の先に静かに揺れている。

季節の移ろいの端境に立っているような、不確かで、それゆえに美しい色だった。

 

足元には、まだ落ちきっていない夏の緑と、始まりかけた秋の金が、まるで語り合うように重なっている。

踏みしめるたびに、わずかに乾いた音が響き、まるで遠い鐘の音のように胸の奥にしみてゆく。

誰もいないこの並木道には、それでも無数の記憶が降り積もっている気がした。

 

目には見えぬ声、名を知らぬ歩み。

そのすべてが、地の底から木々を養ってきたのだろう。

 

上を見上げれば、葉の間から光が縫うように差し込んでいた。

その光は、どこか言葉にならぬ温かさを持っていて、記憶の深層をそっと撫でてくる。

かつてそこに誰かが立っていた気がする。

何を語るでもなく、ただ光の中に立ち尽くしていた人の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんで見える。

 

木々の間を通り抜ける風はほとんど無音だったが、ときおりわずかに葉を鳴らした。

その音は、まるで遠い海の記憶のように低く深く、心を揺さぶる。

 

耳を澄ませば、そのひとつひとつに名もなき日々の声が宿っているようで、私は思わず足を止めた。

静寂の中に、それでも確かな音楽が流れていた。

 

この道には、季節というものが幾層にも折り重なっている気がした。

 

一年のうちのある一日ではなく、幾百の秋と幾千の夕暮れが、まるで永遠の織物のようにこの空間を包んでいる。

いま見ている光景は、その織物のほんの一片にすぎないのだろう。

それでも、私の目にはそれがすべてのように思えた。

 

ある一歩を踏み出したとき、突然、風の流れが変わった。

 

ひとひらの葉が、舞うように落ちてきた。

その軌道はあまりに優雅で、まるで空中に詩を書き記すかのようだった。

葉は私の肩に触れもせず、ふわりと地面に落ちた。

その瞬間、過去と未来のすべてがその一葉に封じられているような、奇妙な感覚があった。

 

私はまた歩き出す。

 

歩幅は変わらず、呼吸も変わらない。

 

ただ、どこかで時間の流れがひとつ折り返したような気がしていた。

木々は変わらずそこにあり、空は変わらず高く、そしてこの道は変わらずまっすぐだった。

けれど、私の内側だけが、わずかに違っている。

風が吹かなくても、私の中には風がある。葉が落ちなくても、私の中には落葉の記憶がある。

 

先へ進むたびに、光が柔らかくなっていく。

午前でも午後でもない、曖昧な時の狭間に、世界は溶けていくようだった。

やがて、木々の間からほのかに空の青が見え、遠くの空気に少しだけ湿り気が混じる。

 

水が近いのかもしれない。

けれど、私はそこへ急ごうとは思わなかった。

この道を過ぎることは、ひとつの夢から目覚めることのようで、惜しみがあった。

 

背後を振り返ると、来た道がまるで霞のなかに溶けていくようだった。

はじめからそこには何もなかったのか、それとも私が夢を見ていただけなのか。

けれど、足元にはたしかに踏まれた葉の形が残っている。

誰かがここを歩いたという証。私がここにいたという証。

 

並木は静かだった。

 

まるで何百年ものあいだ、同じ静けさで、同じ色で、誰かを待ち続けていたかのように。

そして、それを語るでもなく、ただそこに立ち続けていた。

すべてを包みこむ緑と黄のゆらぎが、言葉にならない想いを空に放っていた。

 

歩き旅の途中で出会ったこの道は、どこか現実と夢の境目を歩いているような場所だった。

 

何も語らず、すべてを抱いている。

 

私はその沈黙に、心から安らぎを覚えた。

 





季節が名を変えるたびに、この道もまた新たな詩を綴っていく。
誰のものでもないその詩が、歩く者の胸にだけ宿る。

私は歩きながら、それをそっと心に書き留める。
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