泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が広がる場所がある。
空と地とがひとつになる、静けさの海。

羊たちが眠り、時が歩みを止めるその場所で、私は永遠の輪郭に触れた。


0048 空を歩く羊

草を分け、風を裂きながら、白い道を歩いた。

 

陽は高く、けれど熱はない。

空は静謐に青く、ふと目を上げれば、雲が低く、厚く、悠々と流れていく。

雲の白さと、眼下の緑の海との対比が目を射た。

けれどまぶしさではなく、何かを懐かしく思い出すような、どこか胸の奥をくすぐるような光だった。

 

草原は終わりを持たないように広がっていた。

 

それはまるで、地平線の向こうにまで連なる記憶の帳のようであり、風の通り道そのもののようでもあった。

背丈の低い草が陽を含んで銀色に揺れ、ところどころに点在する白いものが、ゆったりと草を食んでいる。

 

 

羊たちだった。

 

 

動かず、騒がず、ただそこにある。

まるで大地の一部であるかのように。

 

彼らは歩かない。

歩いているのだろうが、地を移動している気配がない。

ただ風に浮かぶように、草の波の中で漂っている。

 

その姿はまるで、空から落ちてきた雲の破片が、偶然この地にとどまり、草の香りに魅せられて、帰るのを忘れてしまったかのようだった。

 

旅の足取りは自然と遅くなる。

 

この草原には時間が落ちてこない。

あらゆる影が薄く、音もまた遠い。

 

耳を澄ませば、微かな噛みしめの音がする。

それは葉がちぎれる乾いた響きで、規則的で、あくまで静かだった。

命の営みはいつも、叫ばずにただ続いているものなのだと、草を食む羊たちの姿は語っていた。

 

道なき道を登ると、風はさらに強くなった。

 

風の中に、何かがあるような気がした。

目に見えないけれど、そこに“意思”のようなものがひそんでいる気配。

どこまでも人を導こうとするような、けれどそれがどこへ向かっているのかは教えてくれない。

問いかけても応えない、ただしなやかに吹きつづける風。

 

丘の上には、ひとつの影が立っていた。

 

それは人のかたちをしていた。だが人ではなかった。

石のような、木のような、あるいは風の彫った幻影のような。

その存在は空と地を結び、見る者に、ここに立てと告げているようだった。

 

誰に向けて、何を指し示しているのか、その手は空の彼方を指していた。

けれどその指先の先に、見えるものはなかった。

あるいは見ることを拒まれたものか、もしくは、それを見るためには、もっと長く歩かねばならないのかもしれない。

 

足元には、土と草と風。

 

その三つがすべてを包んでいた。

音も色も香りも、すべてがそこに溶け合っていた。

 

空の青さは飽和し、羊たちの白さは永遠を含んでいた。

 

人の形をしたその影と、羊たちの穏やかな寝息。

そして、どこまでも広がる緑。

 

それらが静かに調和し、ただ“ある”というだけの力強さを帯びていた。

 

どこかで、一本の風が草を払う音がした。

それはまるで、誰かがそっとページをめくるような音だった。

記録されるでもなく、忘れ去られるでもなく。

この草原では、すべてが等しく「続いている」。

羊の眠りも、風の囁きも、草のざわめきも、誰かの記憶さえも。

 

道を戻ろうとしたとき、草むらの影で、小さな白い子羊がこちらを見ていた。

その瞳は黒曜石のようで、何も語らず、ただ此方の存在を映していた。

一歩踏み出すと、彼はすっと向きを変え、風の流れに乗るように歩き出した。

その背に、雲のかけらのような陽の光が跳ねていた。

 

私はしばらく、その足取りを目で追った。

 

どこへ行くのか、どこから来たのか、それは知るべくもなかった。

だが、その歩みに重ねるように、自分の旅もまた、この風景の中でたしかに存在しているのだと思えた。

そして、それだけで十分だった。

 

草原は、ただ風を抱き、羊たちを眠らせ、空と地とをつなぎつづけている。

そのすべてが、かつて誰かが夢見た風景のようでもあり、これから誰かが目指す風景のようでもある。

 

私がいたという証を残す必要はなかった。

ただ、見たということ。

 

それだけを胸に刻んで、私は再び歩き出した。




遠くへ行ったわけではない。
ただ、風と歩幅を合わせて歩いただけだった。
それなのに、心のどこかが静かに震えていた。

あの白が、まだ胸の奥で揺れている。
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