泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夜と朝のあわい、すべてが息を潜める刻。
白の大地に咲いた儚き命たちは、誰のためでもなく、ただひそやかに咆哮していた。

私はその声なき叫びを胸に、凍てつく記憶を歩いた。


0049 紅雪の咆哮

足元を、雪が鈍く鳴いた。

 

遠くの空に紅が射すより先に、空気は凍った水のように透明で、呼吸ひとつが風景を濁す気がして、ただ黙って歩いた。

地に触れるたび、しんしんと沈む音が、耳の奥で鼓動のように響いていた。

 

薄明の静寂。

 

世界はまだ眠りのなかにあり、歩く者だけが時間の縁に指先をかけていた。

背後には、すでに捨て去った森が重く沈んでいる。

枝という枝に白い綿が絡まり、雪の衣が葉脈さえも封じていた。

その森を抜けて、私はひとつの白野に出た。

 

それは、氷に覆われた大地だった。

あらゆる境目が凍てつき、空と地面の境さえあやふやなその場所で、私の歩みはふと止まった。

足元の氷が、薄明の光をすくって、かすかに赤く染まっていた。

 

一筋、また一筋。

 

闇を割くように現れたのは、まるで火の粉をはらんだ霧のような紅。

空が燃えているのではない。

大地が、眠ったまま夢を見ているのだ。

 

その氷の上に、それは咲いていた。

 

一面に、静かに、慎ましく。

それは花でありながら香りを持たず、形を持ちながら影を落とさない。

まるで大地が吐息を凍らせたかのように、無数の小さな結晶が、氷面にうつむくように咲き誇っていた。

 

白ではなかった。

 

よく見れば、それらはほんのりと紅を含んでいた。

夜明けの空を写したかのように、わずかに色づいたその花々は、誰のために咲いたのだろうか。

 

それは決して、人の手では摘めぬものだった。

ひとつを指先で触れれば、息ひとつ吹きかければ、たちまち溶けて消えてしまう。

けれどそれでも、彼らは咲く。

 

誰にも見られぬことを知りながら、見られぬまま消えてゆくことを運命と知りながら、確かにここにあると告げるように。

それは声なき咆哮だった。

 

紅雪が叫ぶ。

 

その凍った静けさのなかで、音のない叫びが、朝焼けの氷を割ってゆく。

 

踏みしめた氷の向こう、風が起きた。

ささやかな地吹雪が、眠る霜花たちの上を舞った。

一瞬、その姿がかき消えたかに見えた。だが風が過ぎ去ると、彼らはまた咲いていた。

風に身を任せることなく、己の形を、冷たさのなかに保っていた。

その強さに、私は知らず息をのんでいた。

 

どれほどそこに立っていただろう。

 

紅はやがて白に、白は青に、空の表情はゆるやかに変わっていった。

その変化のなかでも、氷の花々は同じ姿を保っていた。

まるで世界の時を止めてしまったかのように。

あるいは、世界がこの花の時をまねているのか。

 

一輪の霜花が、私の足元に転がっていた。

踏みしめた拍子に砕けたのかもしれない。

その姿は粉のようであり、羽のようでもあった。

私はそれを手に取らず、ただじっと見つめていた。

 

この美しさに、触れてはならないと、本能が告げていた。

 

 

 

遠く、森の影に戻りつつある太陽が、最後の輝きを放った。

氷の上に咲いた無数の花々が、いっせいに輝き、燃え、瞬き、消えてゆく。

紅は金に、金は白に、白はやがて透明になった。

 

その光景は、涙のようだった。

 

何かが去っていくのではなく、何かが確かに、そこにあったという証のように。

風が止み、氷は再び沈黙を取り戻した。

 

私は再び歩き出した。

この足が通った証も、すぐに風にかき消されるだろう。

けれど、私の内に刻まれたその記憶は、決して溶けることはない。

凍てついた白の記憶は、私のなかでいまも咲き続けている。

 

次は、どこでまた、あのような咆哮に出会えるだろう。

 

誰にも知られず咲き、誰にも届かず散る、その凛とした命に。

あの静寂のなかで、私は確かに、何かの本質に触れていた。

 





踏みしめた氷の音も、紅に染まった花々の光も、すべては一瞬の幻。

だがその儚さこそが、永遠を語る力になると知った。
私は今も、あの静けさの中に立ち続けている。
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