夜と朝のあわい、すべてが息を潜める刻。
白の大地に咲いた儚き命たちは、誰のためでもなく、ただひそやかに咆哮していた。
私はその声なき叫びを胸に、凍てつく記憶を歩いた。
足元を、雪が鈍く鳴いた。
遠くの空に紅が射すより先に、空気は凍った水のように透明で、呼吸ひとつが風景を濁す気がして、ただ黙って歩いた。
地に触れるたび、しんしんと沈む音が、耳の奥で鼓動のように響いていた。
薄明の静寂。
世界はまだ眠りのなかにあり、歩く者だけが時間の縁に指先をかけていた。
背後には、すでに捨て去った森が重く沈んでいる。
枝という枝に白い綿が絡まり、雪の衣が葉脈さえも封じていた。
その森を抜けて、私はひとつの白野に出た。
それは、氷に覆われた大地だった。
あらゆる境目が凍てつき、空と地面の境さえあやふやなその場所で、私の歩みはふと止まった。
足元の氷が、薄明の光をすくって、かすかに赤く染まっていた。
一筋、また一筋。
闇を割くように現れたのは、まるで火の粉をはらんだ霧のような紅。
空が燃えているのではない。
大地が、眠ったまま夢を見ているのだ。
その氷の上に、それは咲いていた。
一面に、静かに、慎ましく。
それは花でありながら香りを持たず、形を持ちながら影を落とさない。
まるで大地が吐息を凍らせたかのように、無数の小さな結晶が、氷面にうつむくように咲き誇っていた。
白ではなかった。
よく見れば、それらはほんのりと紅を含んでいた。
夜明けの空を写したかのように、わずかに色づいたその花々は、誰のために咲いたのだろうか。
それは決して、人の手では摘めぬものだった。
ひとつを指先で触れれば、息ひとつ吹きかければ、たちまち溶けて消えてしまう。
けれどそれでも、彼らは咲く。
誰にも見られぬことを知りながら、見られぬまま消えてゆくことを運命と知りながら、確かにここにあると告げるように。
それは声なき咆哮だった。
紅雪が叫ぶ。
その凍った静けさのなかで、音のない叫びが、朝焼けの氷を割ってゆく。
踏みしめた氷の向こう、風が起きた。
ささやかな地吹雪が、眠る霜花たちの上を舞った。
一瞬、その姿がかき消えたかに見えた。だが風が過ぎ去ると、彼らはまた咲いていた。
風に身を任せることなく、己の形を、冷たさのなかに保っていた。
その強さに、私は知らず息をのんでいた。
どれほどそこに立っていただろう。
紅はやがて白に、白は青に、空の表情はゆるやかに変わっていった。
その変化のなかでも、氷の花々は同じ姿を保っていた。
まるで世界の時を止めてしまったかのように。
あるいは、世界がこの花の時をまねているのか。
一輪の霜花が、私の足元に転がっていた。
踏みしめた拍子に砕けたのかもしれない。
その姿は粉のようであり、羽のようでもあった。
私はそれを手に取らず、ただじっと見つめていた。
この美しさに、触れてはならないと、本能が告げていた。
遠く、森の影に戻りつつある太陽が、最後の輝きを放った。
氷の上に咲いた無数の花々が、いっせいに輝き、燃え、瞬き、消えてゆく。
紅は金に、金は白に、白はやがて透明になった。
その光景は、涙のようだった。
何かが去っていくのではなく、何かが確かに、そこにあったという証のように。
風が止み、氷は再び沈黙を取り戻した。
私は再び歩き出した。
この足が通った証も、すぐに風にかき消されるだろう。
けれど、私の内に刻まれたその記憶は、決して溶けることはない。
凍てついた白の記憶は、私のなかでいまも咲き続けている。
次は、どこでまた、あのような咆哮に出会えるだろう。
誰にも知られず咲き、誰にも届かず散る、その凛とした命に。
あの静寂のなかで、私は確かに、何かの本質に触れていた。
踏みしめた氷の音も、紅に染まった花々の光も、すべては一瞬の幻。
だがその儚さこそが、永遠を語る力になると知った。
私は今も、あの静けさの中に立ち続けている。