それは拒絶ではなく、忘却に近い。
私はある夜、足元にひっそりと眠る山を登った。
ただ歩き、ただ静かに、
遠くに灯る光を探すように。
そこに見たのは、霧のなかに一度だけ現れ、
また音もなく消えていった、
幻のような塔だった。
山の斜面を、静かに歩いていた。
月は出ていない。
空の奥には厚い雲があり、
すべての光を呑み込んでいた。
だからこそ、足元の草の湿りや、
枝をくぐるときの風の重さが、
五感に生々しく染みてくる。
霧が漂っていた。
音を持たず、
香りもなく、
ただ大気に溶けるように広がっている霧だった。
登るにつれ、霧は濃くなった。
すでに自分の足先すら、輪郭を失っている。
手を伸ばしても、その先に何があるか、視えない。
私はただ、風の通り道を感じながら、
黙々と歩き続けていた。
草の揺れ方で、
空気の密度で、
次に一歩をどこに置くべきかを知る。
やがて、風が変わった。
それはほんのわずかな変化だったが、
私にはそれが“合図”のように思えた。
霧の幕が一瞬、裂けた。
そして視界の先に――
それは、あった。
薄い霧のなか、まるで浮かぶようにして、
塔のようなものが立っていた。
遠くに、光があった。
高く、真っ直ぐに伸びるそれは、
地に根ざしているのか、空から吊るされているのかも分からないほど、
輪郭が曖昧だった。
その塔は、光っていた。
強くはない。
ただ、呼吸するように、
ふんわりと灯っていた。
私は立ち止まり、
その光景を見つめていた。
霧がまた、塔を飲み込もうとしていた。
輪郭はゆらぎ、塔の上部はすでに見えなくなっていた。
それでも、光はそこにあった。
塔の周囲に広がる斜面には、
小さな灯りが点在していた。
まるで草原に咲く花のように、
波のようなリズムで並んでいた。
それらもまた、霧に包まれ、
その存在を確かに感じることはできても、
触れることはできない儚さを帯びていた。
私は、塔に向かって歩いた。
しかし、近づけば近づくほど、
その距離は縮まるどころか遠ざかっていくようだった。
まるで夢のなかを進むように、
風景は揺れ、光はぶれ、
時間の感覚さえ失われていく。
しばらくして、塔が完全に霧のなかに消えた。
残されたのは、淡い光の余韻だけ。
塔があった場所の“記憶”が、
まだ空間に残っているように感じられた。
私はそこで立ち止まり、目を閉じた。
まぶたの裏に、さっきまで見ていた塔が、
くっきりと浮かび上がる。
それは、確かに在ったのだ。
けれど今は、もうどこにもない。
風も霧も、それを探しはしない。
ただ流れ、ただ包み込むだけだった。
私は、山の尾根に腰を下ろした。
足元の草は冷え、露に濡れていた。
静けさが満ちていく。
耳には何も入ってこない。
ただ、胸のなかに“何かを見た”という感覚だけが残っている。
霧のなかでしか現れない塔。
見た者の記憶にしか残らない光。
誰かと共有されることも、
地図に記されることもない。
それでも、確かにあった。
それが私にとっては、
夜の旅におけるもっとも美しい贈り物だった。
時間がゆっくりと、夜の深さに沈んでいく。
塔はもう姿を見せなかった。
代わりに、あの光の波のような草原の灯たちも、
ひとつ、またひとつと、霧のなかに吸い込まれていった。
私は再び立ち上がり、
来た道を戻りはじめた。
登ってきたときとは違う、
身体の奥から響いてくるような静けさを携えて。
それは、満ち足りた感覚ではない。
けれど、空白でもなかった。
“見たことを、覚えている”という事実が、
歩く足取りに静かな重みを与えていた。
私は、何も持ち帰らなかった。
けれど、それでよかった。
塔は、霧のなかに消えた。
そして私は、その痕跡だけを心に灯して、
次の旅へ向かうのだ。
あの塔は、本当に存在していたのだろうか。
霧のなかでしか見えず、言葉にもならず、
ただ、そこに“あった”という記憶だけが残っている。
私は、それを確かめようとは思わない。
目に見えぬものを見たということ。
それだけで十分だった。
旅の本質は、
触れられぬものを感じ取ることなのかもしれない。