泡沫紀行   作:みどりのかけら

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霧は、すべてを優しく覆い隠す。
それは拒絶ではなく、忘却に近い。

私はある夜、足元にひっそりと眠る山を登った。
ただ歩き、ただ静かに、
遠くに灯る光を探すように。

そこに見たのは、霧のなかに一度だけ現れ、
また音もなく消えていった、
幻のような塔だった。


0005 霧に消える塔

山の斜面を、静かに歩いていた。

 

月は出ていない。

空の奥には厚い雲があり、

すべての光を呑み込んでいた。

 

 

 

だからこそ、足元の草の湿りや、

枝をくぐるときの風の重さが、

五感に生々しく染みてくる。

 

 

 

霧が漂っていた。

 

音を持たず、

香りもなく、

ただ大気に溶けるように広がっている霧だった。

 

 

 

登るにつれ、霧は濃くなった。

 

すでに自分の足先すら、輪郭を失っている。

手を伸ばしても、その先に何があるか、視えない。

 

 

 

私はただ、風の通り道を感じながら、

黙々と歩き続けていた。

 

草の揺れ方で、

空気の密度で、

次に一歩をどこに置くべきかを知る。

 

 

 

やがて、風が変わった。

 

それはほんのわずかな変化だったが、

私にはそれが“合図”のように思えた。

 

 

 

霧の幕が一瞬、裂けた。

 

そして視界の先に――

それは、あった。

 

 

 

薄い霧のなか、まるで浮かぶようにして、

塔のようなものが立っていた。

 

遠くに、光があった。

 

高く、真っ直ぐに伸びるそれは、

地に根ざしているのか、空から吊るされているのかも分からないほど、

輪郭が曖昧だった。

 

 

 

その塔は、光っていた。

 

強くはない。

ただ、呼吸するように、

ふんわりと灯っていた。

 

 

 

私は立ち止まり、

その光景を見つめていた。

 

 

 

霧がまた、塔を飲み込もうとしていた。

輪郭はゆらぎ、塔の上部はすでに見えなくなっていた。

 

 

 

それでも、光はそこにあった。

 

 

 

塔の周囲に広がる斜面には、

小さな灯りが点在していた。

 

まるで草原に咲く花のように、

波のようなリズムで並んでいた。

 

それらもまた、霧に包まれ、

その存在を確かに感じることはできても、

触れることはできない儚さを帯びていた。

 

 

 

私は、塔に向かって歩いた。

 

しかし、近づけば近づくほど、

その距離は縮まるどころか遠ざかっていくようだった。

 

 

 

まるで夢のなかを進むように、

風景は揺れ、光はぶれ、

時間の感覚さえ失われていく。

 

 

 

しばらくして、塔が完全に霧のなかに消えた。

 

残されたのは、淡い光の余韻だけ。

 

塔があった場所の“記憶”が、

まだ空間に残っているように感じられた。

 

 

 

私はそこで立ち止まり、目を閉じた。

 

まぶたの裏に、さっきまで見ていた塔が、

くっきりと浮かび上がる。

 

 

 

それは、確かに在ったのだ。

けれど今は、もうどこにもない。

 

風も霧も、それを探しはしない。

ただ流れ、ただ包み込むだけだった。

 

 

 

私は、山の尾根に腰を下ろした。

 

足元の草は冷え、露に濡れていた。

静けさが満ちていく。

 

耳には何も入ってこない。

ただ、胸のなかに“何かを見た”という感覚だけが残っている。

 

 

 

霧のなかでしか現れない塔。

 

見た者の記憶にしか残らない光。

 

誰かと共有されることも、

地図に記されることもない。

 

 

 

それでも、確かにあった。

 

 

 

それが私にとっては、

夜の旅におけるもっとも美しい贈り物だった。

 

 

 

時間がゆっくりと、夜の深さに沈んでいく。

 

塔はもう姿を見せなかった。

代わりに、あの光の波のような草原の灯たちも、

ひとつ、またひとつと、霧のなかに吸い込まれていった。

 

 

 

私は再び立ち上がり、

来た道を戻りはじめた。

 

登ってきたときとは違う、

身体の奥から響いてくるような静けさを携えて。

 

 

 

それは、満ち足りた感覚ではない。

けれど、空白でもなかった。

 

“見たことを、覚えている”という事実が、

歩く足取りに静かな重みを与えていた。

 

 

 

私は、何も持ち帰らなかった。

けれど、それでよかった。

 

塔は、霧のなかに消えた。

そして私は、その痕跡だけを心に灯して、

次の旅へ向かうのだ。




あの塔は、本当に存在していたのだろうか。
霧のなかでしか見えず、言葉にもならず、
ただ、そこに“あった”という記憶だけが残っている。

私は、それを確かめようとは思わない。
目に見えぬものを見たということ。
それだけで十分だった。

旅の本質は、
触れられぬものを感じ取ることなのかもしれない。
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