泡沫紀行   作:みどりのかけら

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霧のヴェールを潜り抜けた先、緑が息づく峡が静かに迎えてくれた。
苔に包まれたその地は、記憶の底に眠る幻のようで、歩みを進めるほどに時の輪郭がぼやけてゆく。


0051 樹海の幻燈

 

――霧は朝の名残を抱いたまま、低く、深く、この峡へと垂れていた。

 

足元の道は、湿り気を含んだ土と朽ち葉に覆われ、踏みしめるたびに、かすかな呼吸のような音がした。

谷は口を閉ざすように狭まり、両側の岩肌が静かに迫ってくる。

岩というよりは、生きものの肋骨のようで、雨を吸いこんで鈍く光る皮膚に、苔が纏う緑の織物が広がっていた。

 

それは緑というにはあまりにも静かで、光というにはあまりにも柔らかかった。

青緑、深緑、翡翠、そしてところどころに蒼。

すべてが時の記憶を宿したような苔だった。

 

歩を進めるたび、峡は徐々にその輪郭を変えてゆく。

 

上を仰ぐと、天空はほとんど見えず、ただ光が、霧を透かし、苔を撫でて落ちてきていた。

どこか遠くの空から届いた記憶の欠片のように。

 

両壁は高く、寄り添うように曲がりながら続いていた。

人の背よりはるかに大きく、滑らかに磨かれた岩肌は、無数の雨と風の指が彫ったものなのだろう。

だがそれは削り取られたものではなく、包み込むように整えられたもののようだった。

 

峡の底に沿って、小さな水の筋が流れていた。

地面に染みこんだ水は、苔に吸い上げられ、葉のような微細な器官を潤していた。

 

水音はなかった。

ただ濡れている、という静寂があった。

 

峡の奥へ進むにつれ、空気は徐々に濃密になっていった。

風は止み、音は遠ざかり、自らの呼吸だけが唯一の現世の証だった。

 

苔は洞の内壁にもびっしりと張りついていた。

ときに、壁がわずかに呼吸するように見えたのは、光と霧が作り出した錯覚か、それともこの峡が生きているからか。

 

どこかで鳥の羽音がした。

 

だが、姿はない。

声もない。生命の影だけが通り過ぎた。

 

しばらく進むと、峡はわずかに開け、光が斜めに差し込む空間に出た。

そこには一本の岩柱があり、頂に苔が冠のように生えていた。

まるで失われた王の墓標のようだった。苔の翠は、その岩柱の頂から静かに垂れ下がり、重力に逆らうかのように宙に舞っていた。

 

岩柱の周囲には、小さな丸石がいくつも転がっていた。

すべて苔に包まれていた。

 

誰が置いたのでもない。ただ、時間が置いていったのだろう。

 

指先で苔に触れると、冷たく、やわらかく、そして吸いこまれるような静けさがあった。

そこには、言葉も感情も溶けていくような、深い、深い静寂があった。

 

道はさらに狭まり、そして洞のような影の中に吸いこまれていく。

まるでこの峡が、自らの奥に歩み手を招いているかのように。

 

その洞に入ると、光はすべて奪われ、世界は緑と黒だけになった。

けれど、不思議と恐れはなかった。

苔が放つ微かな光が、宙を漂う粒子のように、空気の中に滲んでいたからだ。

まるで誰かが灯した幻燈が、岩の隙間に映し出しているようだった。

 

歩けば歩くほど、苔は密になり、岩肌と一体となって鼓動を打ち始めるようだった。

 

視界の端で何かが揺れる。

だが、それは風ではない。

おそらく、峡が記憶している風の痕跡だったのだろう。

 

ある一点で、洞は終わった。

終わりというより、峡がその口を静かに閉じたというべきだった。

 

そこは、半球状の空間だった。

外界から隔てられ、声も届かぬ永遠のような場所。

天井は苔に覆われ、わずかな光が届くと、無数の緑の点が煌めいた。

それは夜の星ではなく、昼の夢だった。

 

地面には、ぽつりと水たまりがひとつ。

鏡のように天井の緑を映していた。

 

何も言葉にできなかった。

 

ただ、その静けさが、過去のすべてを包みこんで、未来さえも静止させていた。

 

それは、ある記憶のなかに踏み込んでしまったような感覚だった。

誰の記憶でもない、世界そのものの記憶。

風や水や時間が、苔の上に沈殿してきた記録。

 

歩いてきた道を振り返ると、誰の足跡もなかった。

苔がすべてを吸収し、記録し、そして再び覆っていた。

 

すべてが、永遠を抱いていた。

緑はすべてを隠し、同時にすべてを語っていた。

 

私はただ、そこに立ち尽くし、息をするしかなかった。

 




苔が語るのは音のない物語。
触れた指先に残るのは湿り気ではなく、遥かな過去の名残だった。

峡を離れた今も、あの静寂だけは、胸の奥に深く染みついている。
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