泡沫紀行   作:みどりのかけら

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焼けるような静寂と、白く昇る息づかい。
ただ歩き続けて、辿り着いたのは、命が目覚めたばかりの大地だった。
触れれば消えるほど儚く、それでいて抗えないほど確かな熱が、そこにはあった。


0052 地熱の祝福

 

乾いた足音が、灰をまぶした小道に吸い込まれていく。

樹々の背が次第に低くなり、地肌が顔を出しはじめた。

 

岩肌がひび割れ、そこかしこに白い息を吐き出している。

ひとつひとつが、まるで目覚めを迎える巨人の寝息のようで、静けさに反して、言葉にならぬ緊張が胸に宿る。

 

谷は浅く広く、まるで時が削り出した大皿のようだ。

その底には、乳白に濁った水がじんわりとたまり、岸辺を焦がすように蒸気が立ち昇っている。

冷たい風が吹いても、その白煙だけはまるで意志をもつように、揺るがぬまま空へ伸びていった。

 

どこかで、ごくりと大地が喉を鳴らす音がする。

それは生きている音、鼓動。

誰のものでもなく、世界そのものの鼓動だった。

 

道はやがて岩の裂け目へと続く。

足場は粗く、灰と硫黄に染まり、熱気が足裏に忍び寄る。

掌をかざせば、皮膚が薄く波打ち、指先から体温が逃げていくのを感じる。

地中から噴き上がる蒸気は、熱いというより、鋭く、脳髄を突き抜けるような存在感を帯びていた。

 

足元の岩に、時おり、赤い筋が走る。

それは誰かの血ではなく、大地が千年かけて生んだ、鉄の涙。

 

無数の鉱物が混じり合い、空気と火と水の果てに、こうして鮮やかな色を残している。

自然はただ在るのではない。

それは、長い時間の末に選び取られた姿だ。

この谷が美しいのは、偶然ではない。

地の奥に眠る何かが、ずっと昔からここを目指して、眠りながら形を選んできたのだ。

 

足を止める。

 

風が鳴く。

湯気が頬を撫でていく。

目を閉じれば、瞼の裏に、遠く遠くの記憶が灯る。

 

それはきっと、自分のものではない。

何百年も昔にここを歩いた誰か。

あるいはまだ人が存在すらしていなかった時代の、大地自身の記憶かもしれない。

 

地面から立ち上る蒸気の奥、ぼんやりと、光が揺れている。

蜃気楼のように揺らぎながら、それはときおり、形あるもののように思える。

小さな生き物か、風に舞う精霊か。

ただの光が、熱と霧を受けて仄かに形をまとっているのだろう。

それでも、そこに確かに何かがいる。

見えない手が、ただ黙って世界を抱いているようだった。

 

谷の奥、最も白く、最も静かな一角。

そこには、まるで火口を抱いた小さな湖があった。

水面は静かに揺れ、熱を宿しながら、音ひとつ立てない。

その周りには植物の影すらなく、ただ蒸気がわずかに低く垂れているだけだった。

ここは生の届かぬ場所。

それでも、死もまた入り込めぬ場所。

 

手を伸ばすこともできず、ただ立ち尽くす。

ここはすべてを受け入れ、すべてを退ける。

その矛盾こそが、たしかに「祝福」だった。

熱と灰、煙と静寂が交わり、何も産まないようでいて、確かに世界を支えている。

 

声は要らない。

想いもまた、ここでは意味を持たない。

 

歩いてきた道を、振り返る。

 

谷の入り口はもう霞んでいて、まるで戻る道さえ拒んでいるようだった。

だが恐れはなかった。

この地に触れたことで、たしかに何かが変わっていた。

 

名も、記憶も、言葉もないままに。

それでも、心の奥底に、白く焼きついた永遠が、静かに、ゆっくりと揺れていた。

 




心の奥に沈んでいた記憶が、ふと熱を帯びて浮かび上がる。

それは景色というより、魂に刻まれる気配だった。
忘れられることのない白の揺らめきが、今も胸の奥で静かに息づいている。
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