ただ歩き続けて、辿り着いたのは、命が目覚めたばかりの大地だった。
触れれば消えるほど儚く、それでいて抗えないほど確かな熱が、そこにはあった。
乾いた足音が、灰をまぶした小道に吸い込まれていく。
樹々の背が次第に低くなり、地肌が顔を出しはじめた。
岩肌がひび割れ、そこかしこに白い息を吐き出している。
ひとつひとつが、まるで目覚めを迎える巨人の寝息のようで、静けさに反して、言葉にならぬ緊張が胸に宿る。
谷は浅く広く、まるで時が削り出した大皿のようだ。
その底には、乳白に濁った水がじんわりとたまり、岸辺を焦がすように蒸気が立ち昇っている。
冷たい風が吹いても、その白煙だけはまるで意志をもつように、揺るがぬまま空へ伸びていった。
どこかで、ごくりと大地が喉を鳴らす音がする。
それは生きている音、鼓動。
誰のものでもなく、世界そのものの鼓動だった。
道はやがて岩の裂け目へと続く。
足場は粗く、灰と硫黄に染まり、熱気が足裏に忍び寄る。
掌をかざせば、皮膚が薄く波打ち、指先から体温が逃げていくのを感じる。
地中から噴き上がる蒸気は、熱いというより、鋭く、脳髄を突き抜けるような存在感を帯びていた。
足元の岩に、時おり、赤い筋が走る。
それは誰かの血ではなく、大地が千年かけて生んだ、鉄の涙。
無数の鉱物が混じり合い、空気と火と水の果てに、こうして鮮やかな色を残している。
自然はただ在るのではない。
それは、長い時間の末に選び取られた姿だ。
この谷が美しいのは、偶然ではない。
地の奥に眠る何かが、ずっと昔からここを目指して、眠りながら形を選んできたのだ。
足を止める。
風が鳴く。
湯気が頬を撫でていく。
目を閉じれば、瞼の裏に、遠く遠くの記憶が灯る。
それはきっと、自分のものではない。
何百年も昔にここを歩いた誰か。
あるいはまだ人が存在すらしていなかった時代の、大地自身の記憶かもしれない。
地面から立ち上る蒸気の奥、ぼんやりと、光が揺れている。
蜃気楼のように揺らぎながら、それはときおり、形あるもののように思える。
小さな生き物か、風に舞う精霊か。
ただの光が、熱と霧を受けて仄かに形をまとっているのだろう。
それでも、そこに確かに何かがいる。
見えない手が、ただ黙って世界を抱いているようだった。
谷の奥、最も白く、最も静かな一角。
そこには、まるで火口を抱いた小さな湖があった。
水面は静かに揺れ、熱を宿しながら、音ひとつ立てない。
その周りには植物の影すらなく、ただ蒸気がわずかに低く垂れているだけだった。
ここは生の届かぬ場所。
それでも、死もまた入り込めぬ場所。
手を伸ばすこともできず、ただ立ち尽くす。
ここはすべてを受け入れ、すべてを退ける。
その矛盾こそが、たしかに「祝福」だった。
熱と灰、煙と静寂が交わり、何も産まないようでいて、確かに世界を支えている。
声は要らない。
想いもまた、ここでは意味を持たない。
歩いてきた道を、振り返る。
谷の入り口はもう霞んでいて、まるで戻る道さえ拒んでいるようだった。
だが恐れはなかった。
この地に触れたことで、たしかに何かが変わっていた。
名も、記憶も、言葉もないままに。
それでも、心の奥底に、白く焼きついた永遠が、静かに、ゆっくりと揺れていた。
心の奥に沈んでいた記憶が、ふと熱を帯びて浮かび上がる。
それは景色というより、魂に刻まれる気配だった。
忘れられることのない白の揺らめきが、今も胸の奥で静かに息づいている。