泡沫紀行   作:みどりのかけら

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北へと足を向けるとき、空気が変わる。
静けさが深くなり、風が肌を刺すほど鋭くなる。
何かを失くした場所、あるいはまだ出会っていない何かが眠る場所。
人の営みが遠のき、自然がすべてを包み込んでしまう場所。

その中に立つと、言葉は意味を失い、
ただ視ること、感じること、それだけが真実になる。

この旅で出会った白の世界は、
まるで過去と現在とが凍てついて重なり合ったような、
祈りにも似た景色だった。


0053 北天の祈り

足跡が消えてゆく。

振り返るたび、ただ白い平面が沈黙を守っていた。

 

風はなく、雪は音もなく降り続け、すべての記憶を隠していく。

まるでこの世界が、はじめから何も持っていなかったかのように。

 

靴の底に伝わる感触だけが現実だった。

ざらつきとわずかな沈み、凍った地表に積もる新雪の層。

 

音はない。

 

だが、歩けばたしかにそこに自分の存在が刻まれていく。

削がれた色彩、凍てつく空気の中で、ただ歩くということだけが、祈りのように思えた。

 

遥か頭上、冬の空は鋭利に澄みきっていた。

空気を吸い込むたび、肺の奥が小さく痛んだ。

透明な青が限りなく引き伸ばされ、天の境に溶けてゆく。

 

そこに浮かぶ太陽は、まるで何かを赦すように、柔らかな光を辺りに撒いていた。

だが、それも暖かさではなかった。

ただ、寡黙な光だった。

あらゆるものを照らすが、何も温めない。

そんな厳しい、けれど神々しい光。

 

山を登る道は、すでに誰のものでもなかった。

枝が凍りついた木々は、声なき観客のように立ち尽くしていた。

 

細くねじれた枝の先には、いくつかの霜花が凍りついている。

歩を進めるたび、それらが淡くきらめき、まるで誰かの記憶が瞬いているようだった。

たとえば、遠い昔にこの地に立った人々の、名もなき祈りが。

 

辿り着いた尾根には、風の通り道があった。

音が戻ってきた。

細く、低く、凍てついた草の葉をすり抜ける風が、耳元で囁いた。

 

はるか下方、白の海が広がっていた。

眼下に沈むのは、地平を覆う氷の帯だった。

流れているはずのものが、今は止まっていた。

凍りついた時の海。その上に降る雪さえ、どこか恐れを抱いているようだった。

 

ただの海ではなかった。

それは、封じられた言葉のように見えた。

語られなかった叫び、届けられなかった手紙、眠ったままの思念。

それらが時を超えて、この氷の下に重ねられているようだった。

 

目に見えるすべては、ただの景色でありながら、それを見つめる者に、なぜか深い呼吸を促した。

ひとつ息を吸うたびに、胸の奥に眠っていた何かが、静かに動いた。

 

尾根の先には、石の囲いがあった。

人の手によるものだが、時の重みを受け、苔と氷に沈んでいた。

そこに立ち、空を仰いだとき、はじめて気づいた。

風の音が、どこかで聞いた声に似ていたことに。

忘れ去った誰かの記憶。

どこにも記されていない過去の断片。

ここでは、すべてが凍り、すべてが生きていた。

 

背後の森の奥に、低い構造物のような影が並んでいた。

それは無言だったが、何かを語りかけていた。

 

閉じ込められた時間。

軋む扉。

削られた名。

そこに積もる雪が、やさしくすべてを包み込んでいた。

白は、ただの色ではなかった。

赦しであり、黙祷であり、過去そのものだった。

 

再び歩き出すとき、足元の雪がわずかに沈んだ。

空は少し色を変え、夕暮れが静かに近づいていた。

あたりのすべてが、金でもなく銀でもない、淡い灰色に染まり始めていた。

無数の影が伸びていく。

光が遠ざかるにつれ、風の音はより鮮明になり、ひとつの旋律を奏でているようだった。

 

この地には、時間が降り積もっていた。

言葉にできぬ想いが、雪とともに覆い尽くしていた。

そして、その重みが、なぜか心を軽くした。

 

歩いてきたこと。

見つめてきたこと。

何も語らぬ風景が、すべてを受け止めていた。

 

白の世界は、永遠を抱いていた。

沈黙の奥に脈打つ何かが、遠く脆く、それでも確かに響いていた。

 

歩みはまた続く。

どこかの空へ、どこかの記憶へ。

 

雪は、やまなかった。

 




雪がすべてを覆い隠していた。
痛みも、歓びも、語られなかった言葉も。
けれど、隠されたまま終わるものなど、この世には一つもない。

見上げた空の果てに、それは確かに在った。
誰かの記憶、誰かの祈り、そして、歩くという行為が導く救いのようなもの。

白は、ただの色ではない。
白は、すべての終わりであり、はじまりだった。
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