泡沫紀行   作:みどりのかけら

54 / 1188
ひとはなぜ、名もなき道を歩きたくなるのだろう。

誰にも知られず、地図にも記されず、記憶の底にひっそりと沈んでいるような場所。
そこには言葉より先に、風が吹いている。音のない色が漂っている。
思い出のように懐かしく、けれど一度も見たことがない風景。

目に映るのは花と空と、果てのない白の地平。
それは、過去へと続く螺旋か。
それとも、まだ名もない未来のまぼろしか。

この地を歩いたとき、わたしの足音は風と溶けあい、
どこか遠く、言葉の届かぬ場所に消えていった。

そうして残ったものを、いま、書き記しておこうと思う。


0054 白き螺旋道

 

風が、地平を撫でていた。

音もなく、色もなく、ただ透明な指先が、砂の粒を持ち上げ、花の首を傾けてゆく。

 

朝の気配は、薄い霧の膜となって空と地を隔てていた。

蒼ではない。

灰でもない。

もっと奥底から浮かび上がってくるような、白に近い光だった。

 

足もとには、低く広がる花々が無数に咲いている。

だれが植えたでもない、だれに望まれたでもない花たちが、まるで記憶の中の旋律のように、音もなく風の流れとともに咲き誇っている。

すべてが、あまりに静かで、あまりに確かだった。

あたかもこの地だけが、時の外側に踏みとどまっているように。

 

右手には海があるはずだったが、朝の靄に飲まれて、その輪郭さえ見えなかった。

ただ、遠くで打ち寄せる音が、地の底から低く響いてくる。

 

波の音ではなかった。

もっと深く、もっと昔から鳴り続けているような音――

 

あるいは、この道を最初に踏みしめた誰かの記憶の中の、白い螺旋のような足音かもしれない。

 

道は真っ直ぐに続いていた。

けれど真っ直ぐであることが、かえって不思議を生む。

人は誰しも曲がり角に意味を求める。

だがここにはそれがない。

何も変わらない風景の中を、ただただ歩き続けているうちに、思考の角も丸められて、心は白い布のように整えられていく。 

 

歩みを進めるたび、足裏に伝わる大地の感触が変わっていく。

時に柔らかく、時に乾いている。

砂と土と、花の根が複雑に絡み合って編まれた細道。

草原の彼方には、小さな湖のような水面が、ちらりちらりと揺れて見える。

左右の世界がまるで一枚の羽のように広がり、この道がその中心の軸であるかのようだった。

 

一羽の鳥が、霧の上から現れた。

羽ばたきひとつで霧を裂き、白銀の空へ吸い込まれてゆく。

その姿は、しばし空に線を残した。消えてもなお、瞼の裏に焼きついた線が、どこか遠い場所とこの地を繋いでいるように感じられた。

 

ふと足を止めると、花の香りがわずかに濃くなった。

 

朝露が蒸発しはじめたのか、太陽が霧の裏で少しだけ笑ったのか。

色彩は依然として控えめで、それゆえに輪郭がやけに際立っていた。

 

白、薄桃、淡黄。

すべての色が、喧騒を拒むかのように控えめで、それでも力強かった。 

 

風がまた通り抜ける。

そのたびに、花々は一斉に身を揺らす。

あれは風に逆らっているのではない。

ただ風と語らっているのだ。

風に何かを打ち明け、風から何かを聞いている。

言葉にならない言葉が、この地には充満していた。

 

空を見上げれば、もう霧は薄らいでいた。

 

太陽がどこにあるか、わかるようになってきた。

だが強く照ることはない。

この地では、すべてがやわらかく、輪郭の内側でしか主張しない。

それがこの場所のやさしさであり、寂しさでもある。

 

長く歩いていると、背後に道ができていることに気づいた。

だれの目にも見えないはずの足跡が、風と花に形を借りて、確かに残っている。

それは螺旋を描いているようでもあった。

 

まっすぐな道なのに、心は何かを巡ってきたような気がする。

何も見なかったようで、すべてを見てきたような、そんな不思議な感覚が残る。

 

歩みを止めると、静けさが寄ってきた。

世界の音がすべて消えていったかのような、あの深い静寂。

まるでこの地そのものが呼吸を止めて、こちらを見つめているようだった。

忘れられることを恐れているようで、けれど忘れ去られることにもどこか納得しているような――

そんな寂しさが、風の奥に隠れていた。

 

やがて再び歩き出す。

 

海はまだ見えなかった。

けれどそれでいいと思えた。

見えないからこそ、この道を歩いていけるのだ。

いつか現れるその一瞬のために、いまはただ歩いていればいい。

 

そしてまた、白い風が吹いた。

 




ふりかえると、そこには何もなかった。

足跡も、声も、影さえも。
ただ一面の白。風に流れる薄香。
それがこの地に刻まれた、ただひとつの記憶だった。

けれど不思議と、胸の奥は満たされていた。
花々はもう見えないのに、その色だけが、いつまでもまぶたに残っていた。
あの静けさが、いまも耳の奥で波のように広がっている。

白き螺旋道――
それは終わりのない祈りだったのかもしれない。
忘れられることを受け入れながらも、誰かの心にそっと根を張る場所。

わたしは静かに、風の中へと歩みを戻す。
ふたたびその道が現れる日を、祈るように。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。