泡沫紀行   作:みどりのかけら

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この旅は、地図にはない記憶を辿るものだ。
風の向くまま、足の赴くままに歩く。
ただし、目的地などというものは持たない。

ときに、道は沈黙の海へと続いている。
その岸辺で、わたしは言葉を失い、ただ佇むしかなかった。

そこには、音のない祈りと、色のない光と、名のない景色があった。

この小さな物語は、そんな一瞬の、消えてしまいそうな光景をすくい取ったものである。
目に見えるものよりも、胸の奥に残るものだけを、そっと書き記してゆく。


0055 風月の湖面

夕の帳が降りる少し前、わたしは音もなく広がる白砂の道をひとり歩いていた。

道は湖に向かって細く伸び、両脇には、風に揺れる銀色の草が揃って首を傾けている。

その静けさは、まるで時のはざまに迷い込んだようだった。

鳥の影すらなく、ただ風だけが、かすかな音を連れて通り抜けていく。

 

遠くに、湖があった。

湖面は空を映し、その広がりは果てのない記憶のようだった。

空と水との境目が曖昧になるほど、光がやわらかく溶け合い、

まるで、この世のものすべてが静かに還元されていく場所のように思えた。

 

水辺へ向かって歩み寄るほどに、足元の砂はしっとりと冷たくなり、

裸足に近い靴の中へ、ほのかな湿り気が染みてきた。

湖は言葉を持たず、それでも圧倒的な存在感を放っていた。

 

そのとき、夕陽が、水平の彼方に落ちかけていた。

朱と金と白のすべてを混ぜたような色が、空を撫でて、

ゆっくりと湖面に降りていく。

太陽が沈むのではなく、湖がそれを迎えにゆくかのようだった。

 

光は水面で砕け、細かい皺のように広がり、

ひとひらの波紋となって岸辺をそっと揺らした。

波は低く、遠慮がちに打ち寄せる。

それは眠りに落ちる直前の呼吸のように静かで、

世界全体が、深いまどろみに包まれていくようだった。

 

私はその場に立ち尽くした。

 

なぜ歩いていたのか、どこへ向かっていたのかさえ忘れて、

ただこの光景を、胸の奥深くに刻みつけたかった。

 

水は鏡だった。

鏡は空を写し、空は太陽の残光を抱いていた。

風が止み、鳥の影がゆっくりと湖面を横切っていった。

その羽ばたきも、音を立てず、

ただ、ひとつの絵画のようにそこにあった。

 

湖の対岸は霞の中に沈み、まるで現実の続きではないようだった。

時間が折り返し、永遠の始まりを告げる瞬間のようで、

わたしはその無音の世界に、微かに震えながら身を置いた。

 

空が青から藍へと移ろい、

白んだ雲が燃えるような紅に染まり、

そして、音もなく崩れていった。

 

空と湖が一体となり、色彩の境界が失われたとき、

わたしは思った。

 

これは世界が生まれる直前の、ひとときなのだと。

 

世界が生まれるには、まずすべてを沈黙の中に包み、

余白を満たさなければならないのだと。

 

水辺に咲いていた白い花が、風に揺れた。

その花はひとつひとつが、過去の記憶のようで、

指で触れれば消えてしまいそうなほど繊細だった。

 

それでも、咲いていた。

夕陽の余光の中で、確かにここにあった。

 

私は腰を下ろし、しばし水面を眺めた。

湖は何も言わず、ただすべてを抱いていた。

 

たとえ明日、どこに向かうとしても、

この光景だけは、きっと忘れられない。

 

目を閉じれば、赤くにじんだ光がまぶたの裏に残り、

風の音が、遠い昔の歌のように響いた。

 

やがて空は藍を濃くし、湖は闇を抱いた。

そして、最後の光が、水面の奥へと静かに沈んでいった。

 

それはまるで、永遠そのものが、

今、わたしの目の前で眠りについたようだった。

 




太陽は沈み、しかし完全には消えなかった。
湖の奥に、確かに留まり続けていた。

わたしは歩き続ける。
けれど、あの湖に映った夕陽は、ずっと背中で燃え続けている気がする。

旅は進んでも、心は時に立ち止まる。
その立ち止まった瞬間こそが、永遠の入口なのかもしれない。

この世には名もない美しさがある。
名づけられぬものこそ、人の心に深く根を下ろすのだろう。

静かに揺れる湖面を、今も目を閉じて思い出す。
それは景色というより、祈りに近い感覚だった。
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