泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風の音だけが、耳の奥に残るような日がある。
誰とも言葉を交わさず、ただ歩くだけで、胸の奥に触れる風景に出会うことがある。
それはまるで、遠い記憶の断片のようでありながら、確かに今この足元に広がっている。

本当は、誰かがずっと昔に見て、そっと心にしまった風景なのかもしれない。

だが、それでも私は歩きつづける。
その「誰か」の記憶と、今の自分の時間が、どこかで重なるのを信じて。

物語の扉は、白い丘の向こうに、ひっそりと開かれていた。


0056 彩雲の舞台

緩やかな起伏の連なりが、地平の彼方へと静かに波打っていた。

しっとりとした風が、乾きかけた草の香りをたずさえて頬を撫でる。

あたりには人の気配も音もない。

耳に届くのは、風に揺れる野草の擦れる音と、遠くで鳥が翼を打つかすかな響きだけだった。

 

足元の道は、すでに道と呼ぶにはあまりにも薄れていた。

踏み跡というより、風が選んだ筋道のように、緑の絨毯の中をあいまいに縫っている。

歩を進めるたび、靴底に踏みしめられた小さな草々が、ささやくように身をくねらせ、また元の静けさに戻っていった。

 

陽はまだ高いというのに、空はどこか夕暮れを想わせる温度を持っていた。

澄んだ青が少しずつ柔らかく崩れはじめ、その隙間に、まるで染み込むようにして色づいた雲たちが浮かんでいた。

淡い紅、藤色、乳白、そしてかすかな金。

どれも名前のない色で、誰かが筆でそっと撫でたような線を描いていた。

それはまるで、空そのものがひとつの大きな絵画になって、地上の誰かにただ一瞬だけ見せようとする舞台装置のようだった。

 

小高い丘を登りきると、風が姿を変えた。

それまで耳もとでささやいていた風が、今度は胸の奥まで吹き抜けて、心の埃までも運び去るようだった。

そこには、まるで夢に出てくるような光景が広がっていた。

 

大地は限りなく滑らかで、どこまでも広がる畑の波が、まるで大昔から息づいてきた眠りのように、ただ静かに脈打っている。

草も花も畝も、声ひとつ立てずにそこに在り、しかし生きていた。

一面を包む緑は決して単調ではなく、黄味がかった若草、深く濃い松葉、ほんのり赤みを帯びた刈り残しの穂先……そのどれもが、光に応じて色を変え、ゆっくりと脈を打っていた。

 

そして、その中央よりやや奥に、七本の木が並んで立っていた。

太くはない。

高くもない。

だが、まるで誰かが意図的に配置したかのように、規則と自由のあいだを漂うような、絶妙な距離感で立っていた。

 

一本ずつを見れば何の変哲もない木々だった。

しかし七本が揃うと、それは風景の中に在ってはいけないはずの何か——ひとつの「記憶」そのもののようだった。

それぞれの枝は同じ空を目指しているが、どこか別々の場所を想っているようだった。

ある木は寄り添うように隣を見つめ、ある木は少し離れて、独り風に揺れている。

その静けさが、なぜか人の心に長く触れて離れなかった。

 

空の色が、ほんのわずかに深みを増したときだった。

 

七本の木々の真上に、光の束が降りた。

それは太陽からこぼれた名残のように、雲の切れ目から垂直に落ち、まるで天からの糸のように地上へと届いていた。

その光の筋の中に、彩りが舞っていた。

 

一瞬だった。

 

淡く、儚く、七色に滲む光の帯が、風に流されるようにして姿を現した。

だが、それは幻ではなかった。

確かにそこに「何か」が舞っていた。

それは雲の精か、空が吐き出した夢か、それとも大地が見せた一瞬の記憶か。

その彩りが、七本の木々の間をくぐり抜け、大地をそっと撫でて消えていくまで、誰も息をすることができなかった。

 

光が引き、雲がかすかに形を崩した。

その瞬間、風がまた新たな頁をめくるように吹き抜け、丘の上の世界を、そっと次の章へと送り出した。

 

木々は変わらずそこに立っていた。

ただ黙って、空を見つめていた。

誰かの記憶を知っているような、あるいは、まだ語られていない物語をその幹の奥にしまっているような佇まいだった。

時間というものが、ここには存在していないのかもしれないと、ふと思った。

この七本の木々のまわりだけは、どこか別の場所と繋がっているような、現し世とはほんのわずかにずれているような、そんな感覚だった。

 

また一歩、草の中に足を踏み入れる。

足音はなく、ただ風と光が、背中を押す。

遠くの空には、まだうっすらと彩雲の余韻が残っていた。

それは目を凝らしてようやく見えるほどの、かすかな色だったが、確かにそこにあった。

 

この丘に来るまでの道のりが、どこか別の世界に続いていたのだとすれば。

いま、また別の世界へと歩き出す道も、きっとどこかにあるのだろう。

ふりかえれば、七本の木々は変わらぬまま、微かに揺れていた。

 

まるで、もう戻らなくてもいいと言っているようだった。

 




七本の木は、語ることなく、ただ風と空を見上げていた。
あの場に立つと、言葉というものがどれほど脆いかを思い知らされる。
語らずに伝える力。
触れずに抱くぬくもり。
それを、この場所は知っていた。

私は、あの丘で何を見たのだろう。
光の舞か、空の記憶か、それとも忘れかけていた自分自身か。

帰り道、空は少しずつ元の色に戻っていった。
けれど、胸のどこかには、あの一瞬の彩りが、静かに、静かに灯っている。
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