泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩き始める前から、空気はすでに水を含んでいた。
靴裏に伝わる地の柔らかさと、皮膚にまとわりつく湿りが、これから触れるものの輪郭を予感させる。
遠く近くで重なり合う微かな音が、内側の調子を整え、歩くことそのものが静かな準備になる。

名も持たない青の気配が、まだ見ぬ奥行きとして胸に滲んでいた。


0566 深海の輝きが紡ぐ幽玄の水界

初夏の気配は、まだ名を持たない湿りとして足裏にまとわりついていた。

歩くたびに地は柔らかく息を吐き、草の縁で乾きかけた水が淡く光った。

昼と夕の境が伸び、影は薄く、長く、曖昧になっていく。

胸の内に溜まっていた塵が、歩幅に合わせて少しずつ沈殿していくのがわかった。

 

坂を越えると、塩を含んだ風が皮膚の奥まで染み込んできた。

遠くで水が呼吸する低い音があり、その律動に合わせて、木々の葉はかすかな震えを繰り返す。

足首に触れる草の先が冷たく、指先に残る湿りは、ここまで連れてきた時間の重さのようだった。

 

やがて、静けさを溜め込む大きな水の間に入る。

外の光は薄膜を通してほどけ、内部では青が何層にも折り重なっていた。

歩く速度を落とすと、靴底が床に吸いつく感触が伝わり、身体の内側の水も揺れを止める。

視界の奥で、透明なものたちがゆっくりと脈を打つ。

触れれば壊れてしまいそうな薄さで、しかし確かな重みをもって漂っている。

 

円環の形をした水の器の中で、光は粒となり、沈み、また浮かび上がる。

淡い白、深い藍、ほのかな金。

色は固定されず、呼吸のたびに配置を変え、見る角度によって意味を失う。

目を凝らすと、細い触手が時間の糸のようにほどけ、絡まり、解けていく。

そこには急ぎはなく、遅れもない。ただ、続くということだけがあった。

 

立ち止まると、背中に残っていた歩きの疲れが、静かに溶けていく。

膝の裏に溜まった熱が引き、肩の奥の硬さが水に譲る。

ここでは、重さの配分が外界と違っていた。

思考は浮力を得て、言葉になる前で静止する。

心臓の音が遠のき、代わりに水の拍動が近づく。

 

通路を進むにつれ、暗さは深まり、光はより精緻になる。

小さな器の中で、幼い形が震え、まだ定まらない輪郭を保っている。

生まれたての透明は、脆さと同時に強さを持つ。

壊れやすいものほど、世界を映す面積が広いのだと、無言のまま教えられる。

 

足音を忍ばせて歩くと、視界の端で、ひとつの影がゆっくりと沈降する。

深い層へ向かうその動きは、別れにも似ていたが、悲しみは含まれていない。

ただ、位置を変えるだけの必然があった。

胸の奥で、何かが同じように沈み、静まっていく気配があった。

 

水の向こう側で、光は細い線となり、無数に交差する。

その網目に、過ぎ去った日々の手触りが絡め取られる。

歩いてきた道の土の匂い、風の塩気、草の冷たさ。

それらは言葉を持たず、ただ、ここに在る水と同じ温度で、ゆっくりと溶け合っていく。

 

さらに奥へと歩みを進めると、時間の流れが別の尺度で測られているのを感じる。

外では確かに初夏へ向かっていたはずの季節が、ここでは静止し、あるいは円を描いて巡っている。

湿った空気が喉を潤し、吸う息ごとに身体の輪郭が曖昧になる。

骨の内側にまで水が満ち、歩くという行為さえ、水中での緩慢な移動に変わっていく。

 

大きな水の壁に近づくと、そこには深い層の色があった。

表層の淡い青を抜け、群青を越え、ほとんど黒に近い紺が底に沈んでいる。

その中で、微かな光点が脈打ち、消えては現れる。

星に似ているが、遠さはなく、手を伸ばせば届きそうな距離にある。

その近さが、かえって触れられない境界を際立たせる。

 

歩き疲れた足の裏が、床の冷えを正確に拾う。

硬さ、平らさ、そして微かな振動。水の向こうで起きる動きが、遅れて伝わってくる。

身体はここにありながら、感覚の一部は確かに水の内側へと入り込んでいた。

脈拍がその動きに同調し、速くも遅くもならない、均された速度に落ち着く。

 

ひときわ暗い場所で、光は突然、内側から湧き上がる。

青白い閃きが、静かな闇を一瞬だけ縫い、また消える。

その反復は規則的ではなく、待つことを許さない。

ただ、見逃してもよいという優しさがある。

目に焼き付けようとする意志を手放したとき、かえってその輝きは深く胸に沈む。

 

水の生きものたちは、こちらを意識しない。

視線を向けられないことで、存在は純粋になる。

意味づけを拒み、名前を拒み、ただ形と動きだけが残る。

その無関心の中に、安堵があった。

何者かであろうとする緊張が、静かにほどけていく。

 

通路の曲がり角で、天井から落ちる微かな滴の音を聞く。

水が水へ帰る音。その単純な循環が、長い歩きの果てに染み渡る。

歩いて、見て、立ち止まり、また歩く。

その繰り返しが、ここでは呼吸と同じ価値を持っていた。

 

最後に、やや明るい場所へ戻ると、外からの光が淡く混じる。

水の色は柔らかさを取り戻し、漂う形も穏やかになる。

胸の内で、沈んでいた何かが、完全に消えたわけではないが、もはや重荷ではなくなっているのを感じる。

それは水底に沈めた石のように、存在を忘れられたまま、確かな安定をもたらす。

 

歩き出すと、再び足は地を捉える。

湿り、冷え、重さ。

それらは変わらずそこにあるが、受け取り方がわずかに違っていた。

背後で水は静かに脈を打ち続ける。

その調律は、外へ出ても途切れない。

初夏の気配は、今や身体の内側に移り、歩くたびに、深い青の余韻を静かに響かせていた。




再び歩き出すと、光と水は背後で重なり合い、静かな層として残る。
足元の感触は現実へと戻りながら、内側には深い青が沈殿したままだ。

振り返らなくても、あの脈動は失われない。

歩幅に合わせて、見えない水界が静かに調律され、初夏の余韻として、長く身体に留まり続ける。
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