泡沫紀行   作:みどりのかけら

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静けさには、色がある。
それは白とも灰ともつかぬ、何者にも染まらない光の余白。
声が届かぬほど広い場所で、風だけが記憶を運んでゆく。

旅をしていると、ときどき、世界そのものが呼吸を止めているような場所に出会う。
時間が凍りついたような、あるいは、すべてが祈りの中に沈んでいるような場所だ。
足音すら憚られるほどの静謐が、そこにはある。

この記録は、そんな一つの場所を歩いた日のこと。
どこかで誰かが夢に見たかもしれない、ある夏の朝の、名もなき神殿の話である。


0057 静けさの神殿

白い霧がまだ地を這っていた。

夜と朝の境が溶け合うその時間、旅人の足音は、露をまとった草を静かに押し分ける。

空の色は、青とも言えず、灰とも呼べぬ。

まるで世界が何かを思い出そうとしているような、眠りの余韻を引きずる大地だった。

 

小さな丘を越えた先に、光がこぼれていた。

それは太陽ではなく、大地から湧きあがる光。

黄色の、柔らかな、幾万もの花の海だった。

花々は揃って首を東へと向けていた。

まだ昇らぬ陽を待つように、あるいは、その記憶に導かれているかのように。

 

風は、声を持たなかった。

けれど、花の間をすり抜けてゆくその動きは、まるで誰かがここに立っていた証をなぞるようだった。

花弁が揺れ、茎がしなり、幾重にも重なる音のないうねりが、谷を、丘を、世界を染め上げていた。

 

音なき音楽。

動かぬ舞踏。

永遠をそのまま地上に写したかのような、均整と反復と光の連なりだった。

 

一歩ごとに、足元が黄金の波に沈んでいくようだった。

踏むたびに、柔らかな花粉の香りが空にほどけた。

どこまで歩いても、尽きることがなかった。

背の高さを越える花々が、まるで森のように旅人の視界を遮った。

そしてまた、次の一歩で視界が拓け、無限の空間が広がる。

 

まるでこの地が、生まれてからただ一度も沈黙を破られたことのない神殿であるかのようだった。

誰の祈りも、誰の声も、ここには要らない。

すべては風が語り、光が答え、花が記憶する。

 

空が白から蒼へとゆっくりと染まりはじめる頃、ひときわ背の高い一本の花が、旅人の前に現れた。

その花は、他のどれとも違う。

色はより深く、輪郭は揺らめきながら、まるで光そのものが宿っているようだった。

花弁の縁には、わずかに霜が残っていた。

季節が交わる境界にだけ現れる、幻のような姿だった。

 

旅人はただ、その一本の前に立ち尽くした。

そして、何も問わず、何も語らず、目を閉じた。

 

花々のざわめきが、その瞬間、すべて遠のいた。

風はやみ、大地は呼吸を止めたかのようだった。

 

どれほどの時間が流れたのか、旅人は知らない。

ただ、次に目を開けたとき、世界はまったく別の顔をしていた。

空は高く、青が限りなく澄んでいた。

花々はすでに首をそろえて陽を仰ぎ、彼方へ続く金の川となっていた。

 

歩き出すと、足元にわずかな影が落ちた。

それは旅人の影ではない。

空をかすめる雲の影でもなかった。

花々の中に沈む、過去の記憶だった。

かつてこの地を歩いた誰かの、想いが形となって残っているかのようだった。

 

旅人は歩いた。

 

何も残さず、何も奪わず、ただ歩いた。

この光景が、誰かの祈りの果てにあったものであるならば、その祈りを踏まぬように。

この静けさが、過去と未来の接ぎ木であるならば、その継ぎ目を裂かぬように。

 

背後で風が再び動き出した。

花の海がざわりと身を揺らし、陽光の粒がその間を踊るようにすり抜けた。

そのとき旅人は、かすかに涙の匂いを感じた。

それは悲しみではなかった。

けれど、懐かしさでもなかった。

ただ、どこか深く、確かな重みを持った、静かな感情だった。

 

この地には、誰かがいた。

あるいは、今もいるのかもしれない。

声ではなく、姿でもなく、ただこの静けさの中に溶け込み、すべての花の記憶に刻まれている。

その想いが、光となり、色となり、形となって咲き続けている。

尽きることのない空に向かって。

 

やがて旅人は、丘の上にたどり着いた。

振り返ると、花の海が一面に広がっていた。

朝陽が高く昇り、花々はまるで光を吸い上げるように空を見上げていた。

 

誰にも語られることのない記憶。

声にすれば崩れてしまう沈黙。

 

ここには、言葉よりも深く、美しさが在った。

永遠を抱く、白の記憶が、確かにそこに在った。

 




花は、咲いているあいだ、声を持たない。
けれど、その沈黙は無音ではない。
風が運び、陽が包み、そして見つめる者の心に、確かに何かを置いていく。

記憶は、言葉になる前の風景に宿る。
そこには説明も解釈もなく、ただ、目を閉じた奥でゆっくりと輝き続ける何かがある。
それはきっと、誰かの祈りであり、かつての涙であり、まだ名付けられていない感情の源だ。

この地で見た光景は、きっと時間とともに薄れていく。
けれど、あのとき確かに胸を打った静けさだけは、風の音の中で生き続けている気がしてならない。

いつかまた、あの金の海の果てに、言葉では触れられない何かを見つけたい。
そしてまた、静けさの中に身をゆだねる旅を続けようと思う。
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