泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風が道をつくることがある。
誰かが通ったわけでもなく、誰かが待っているわけでもない。
けれど、ただその先に揺れるものがあるなら、人は歩いてしまう。

鈴のようにかすかに鳴る記憶。
風にほどけてゆく想い。
この旅は、そんな音のほうへ向かって歩いた、静かな記憶の一片である。


0058 風鈴の尾根

 

白く乾いた道が、空の切れ目へと吸い込まれていた。

風に洗われた草原の端、足もとの土は浅く焼け、歩くたびに、靴底にまとわりつくような細かな音を立てていた。

その道は、どこまでもまっすぐで、けれどほんのわずかに、海へ向かって傾いていた。

 

両脇には低く波打つ丘が続き、草の海に溶けるようにして、見渡すかぎりの緑が揺れていた。

花は少なかったが、名も知らぬ白い小花がところどころに散っていて、風にほどけるように咲いていた。

どこからか、かすかに鈴の音が降ってきた。

 

はじめは耳の奥に残る幻のようだったが、歩を進めるごとに、確かに風に乗った音が近づいてくる。

それはただの音ではなかった。

乾いた空を裂くような高音ではなく、草の葉が触れ合うようなやわらかさで、風とともに、体の輪郭を撫でていった。

 

やがて、小さな尾根にたどり着いた。

風は一段と強くなり、歩いてきた道の名残さえも、その尾根に入ると霞のように消えていった。

高台の上に、それはあった。

 

手すりのように木を組んだ細い桟橋が、空と海の境目へとせり出していた。

先端へと歩いていくと、道の左右に細い枝を立てたような骨組みが並び、そこに無数の風鈴が吊るされていた。

 

どれも微かに色を帯びていたが、遠目にはすべて白く見えた。

乳白色の硝子が、光を柔らかく反射し、空の青や雲の白を包み込むようにして揺れていた。

風が吹くたびに、それらは控えめに鳴いた。

 

音は不規則に重なり、遠く近くに広がった。

ひとつの風鈴が鳴れば、それに応えるように別の音が連なり、まるで見えない手が、この空間すべてを弾いているようだった。

風は飽きもせず吹き続けていた。

 

桟橋の先から見えたのは、空よりも白い水平線だった。

海というには淡く、雲というには深く、その狭間にある光だけが、たしかにそこに在った。

風鈴たちは、その光に向かって鳴っていた。

 

音は過去の記憶のようだった。

 

懐かしく、けれど具体的ではなく、ただ魂の奥に沈んでいたなにかを呼び起こすだけの力を持っていた。

風が吹くたびに、心のどこかが洗われていくような感覚があった。

 

足元に、ひとつだけ落ちていた風鈴の欠片があった。

乳白色の硝子の破片に、夕陽が差し込んでいた。

砕けた音も、たぶんどこかに溶けて、今も鳴っているのかもしれなかった。

 

空はゆっくりと色を変え始めていた。

 

青から薄桃へ、そして橙の縁をまといながら、すべてを包む柔らかな金色が尾根を照らしていた。

風鈴の音はやや弱まり、風そのものが、静けさに耳を傾けるようにゆるやかになっていった。

 

風鈴たちは、まるで昼の記憶を振り返るように、名残惜しげに鳴いていた。

そして、まるで光の方へ導かれるように、その音は少しずつ遠のいていった。

桟橋の先端で立ち尽くすと、風が背を押し、音の世界へと招かれているように感じた。

 

振り返れば、歩いてきた尾根はすでに影の中に沈み、草原の色さえもわからなくなっていた。

風鈴の尾根は、いまや空と海と光の境目に浮かぶひとひらの幻だった。

その幻のなかに、ただひとつ、確かに残っていたものがあった。

 

それは、風が運んできた音の記憶だった。

心に沈むような音、胸をふるわせるほど優しい光の輪郭。

 

そして、どこまでも歩き続けてきた旅人だけが辿り着ける、白の記憶の在りかだった。

 





音には、かたちがない。

けれど風鈴の音は、不思議と景色を結ぶ。
それは耳に触れるだけでなく、光や風や、心の奥の沈黙にまで染み込んでくる。

あの尾根で聞いた音は、たぶん永遠には続かない。
だが、それを胸に抱いて歩く旅は、どこまでも続いていけるように思う。

音が遠ざかるほどに深まる白の記憶。
その静けさを、あなたにも渡せたなら、私はもう少し先まで歩いていこう。
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