泡沫紀行   作:みどりのかけら

59 / 1176

風は、色を持たずに人の記憶を揺らす。

ある日、私は北へ向かって歩いた。
地図も方角も持たず、ただ香りに導かれるように、誰も名を知らぬ土地へと足を運んだ。
そこには、言葉よりも先に胸を打つものがあった。

形を持たずに残る記憶。
肌に触れずとも沁み渡る空気。

それはまるで、長く閉じられていた一冊の本が、そっと風で開かれる瞬間のようだった。
今作に記したのは、その白く静かな回廊で出会った、ある風景の記憶である。


0059 霧光の回廊

 

白い風が、足元から這い上がるように吹いていた。

その風には色がないのに、はっきりと涼しさを帯びていた。

 

ただの冷気ではなく、何かが混じっていた。

 

鼻腔をすり抜けた瞬間、胸の奥にまで染み込んでくるような、

まるで記憶の断片をすくい上げるような、静かな刺激だった。

 

ゆるやかな坂を登っていくと、霧が垂れ込めていた。

光を包む霧ではなく、光そのものが霧の姿になったような在り様だった。

柔らかな銀が世界を洗い、葉の輪郭をぼやけさせ、時間の流れさえ鈍らせていた。

靴裏が踏みしめるたび、湿り気を含んだ大地がかすかに鳴いた。

 

両脇には草の海が広がっていた。

一枚一枚の葉が、すべてが冷たい香りを孕んでいた。

その色は緑というにはあまりに淡く、ほの白い影を背負っていた。

陽が射しても、濡れたような光沢が返ってくるだけだった。

まるで、すべてが夢の皮膜に覆われているかのように感じられた。

 

目を凝らすと、葉の一枚一枚にかすかな毛が立っていた。

その繊毛が風にふるえて、かすかな音を奏でていた。

 

聴こえはしないが、耳の奥に微細な音がこだましていた。

無数の葉が、誰にも知られぬまま、共鳴していた。

 

白い回廊を歩いているような錯覚があった。

 

霧が柱で、香りが天井だった。

草が床で、風が通路だった。

 

そこには扉も屋根もなかったが、明らかに“内”の空気が漂っていた。

ひとたび足を踏み入れれば、何かを置いていかなければ戻れない、そんな気配があった。

 

さらに進むと、木々が現れた。

幹は細く、年輪を重ねていながらも、どこか少女のような頼りなさを残していた。

枝にはびっしりと、また別種の葉が繁っていたが、それらもどこかで同じ香りを持っていた。

自然の中に溶け合いながら、互いの輪郭を保ち続けるような緊張感があった。

その静寂は、まるで古い調度品が並ぶ部屋に忍び込んだときのような、

時間の沈黙だった。

 

足元の小径には、灰色の小石が敷き詰められていた。

その表面にも、淡い霧の粒が宿っていた。

霧のひと粒ひと粒が、小さな鏡のように空を映していた。

 

空は雲に覆われていたが、それは光の海のように明るかった。

空気そのものが、ひとつの記憶装置のように思えた。

 

やがて、石造りの建物が見えた。

外壁は長い風雪に晒されてきたのか、うっすらと苔が染みこんでいた。

 

扉は閉ざされていたが、壁の内側から、誰かの息づかいが感じられる気がした。

それは過去の残響ではなく、今なおそこに生きている気配だった。

だが、その気配は触れようとすれば霧のように溶けてしまう。

ただ、確かにそこにある、とだけ伝えてくる。

 

建物の脇に沿って、またミントの葉が広がっていた。

風が吹くたび、葉が一斉に波打った。

 

そのさまは、誰かが遠くから、忘れかけた詩の断章を読み上げているようだった。

その詩は意味を持たず、ただ空気と光を震わせていた。

けれど、なぜか涙腺の奥が熱くなった。

 

いつからか、風の色が白から薄緑に変わっていた。

 

霧の粒も少しずつ散り、葉の輪郭がはっきりしてきた。

香りも強くなったように思えた。

だが、それは強さではなく、深さだった。

記憶の奥へ奥へと沈んでいくような、言葉にならない重みだった。

 

しばらく立ち尽くしていると、風の中にかすかな温もりが宿った。

それは太陽の熱ではなく、何かが見守るまなざしのような感触だった。

 

冷たさの中にある優しさ。

忘却の中にある輪郭。

そのすべてが、この白く満ちた空間に、ひっそりと息づいていた。

 

歩き出すと、香りが背中を押した。

振り返ると、もうそこに建物はなかった。

けれど、香りだけは確かに残っていた。

 

霧も風も葉も、すべてが過去に還りつつ、未来へと続いていた。

白い記憶は、決して色褪せることがなかった。

 





すべてが白に満ちていた。
けれど、それは何もない白ではなかった。

風の中に、過去と未来の香りが潜んでいた。
足元の土に、眠っていた時間の粒がこぼれていた。
私はその地を離れたあとも、何度も背中に風を感じた。
目を閉じれば、あの香りが鼻腔をくすぐる。

何も語られず、何も主張しないその風景は、誰よりも深く、私の胸に語りかけてくる。

永遠を抱く白の記憶は、きっと誰の中にもある。
私の旅は、それをひとつずつ拾い集める行為なのかもしれない。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。