風の中に、ひとしずくの静けさが紛れていた。
私はそれに導かれ、歩き出した。
森を抜けた先に、沈黙だけが満ちていた。
草が途切れ、苔むした岩を跨ぎながら歩くと、
空気の匂いが変わるのを感じた。
ひと息ごとに、肺の奥が冷えてゆく。
水の匂いだった。
それも、流れるものではない。
静かに、深く、澱むもの。
やがて足元の草が急に消え、
視界の先に、ぽっかりとした空白が現れた。
そこには、池があった。
青い――というには、あまりにも深すぎる色。
水面は、まるで空を内包したように澄んでいる。
だが、それはただ透明なのではなかった。
水のなかには、明確な「色」があった。
不純物ひとつない絵具のような、
しかし自然界のどこにも存在しない青。
池は小さかった。
歩けばすぐに回りきれるほどの広さ。
けれど、その中央に立ち尽くすようにして
枯れた木々が突き刺さっていた。
幹の皮は剥がれ落ち、
枝もほとんど失われている。
ただ、白く干からびた骨のように、
水のなかから垂直に立ち上がっている。
その姿が、青のなかに沈みながらも、
確かにそこにあるという存在感を放っていた。
池の周囲には、風もなく、音もなかった。
鳥のさえずりすら届かず、
木々の葉も、なぜかそっと身を潜めている。
まるでこの場所だけが、
どこか別の時間に取り残されたようだった。
私は水面に近づき、
膝を折って、そっと覗き込んだ。
その瞬間、
胸の奥が、ほんのわずかに痛んだ。
水は透きとおっているのに、底は見えなかった。
青が深く、あまりにも深く、
どこまでも広がっているように感じられた。
光は吸い込まれ、輪郭をなくし、
水底ではなく、空間そのものが
青に溶けているようだった。
私はそこに、記憶のようなものを見た。
それが何の記憶か、明確ではない。
ただ、もう戻れないもの。
すでに終わっていること。
それがこの池の青には、確かに封じ込められていた。
枯れた木々が、静かに沈黙を守っている。
その姿は、過去の時を抱えた証人のようで、
水面に映る影さえも、沈黙しているようだった。
空がわずかに曇り、
池の色が変わる。
青は、鋭さを失い、
墨のように黒ずんでいく。
けれど、雨は降らなかった。
ただ雲が通りすぎ、
また青が戻る。
それだけの変化が、
この場所では途方もない出来事に思えた。
私はそのまま、長いあいだ座り込んでいた。
水は波立たず、
時間も動かない。
ただ、視線だけが水の奥に沈み、
心が、どこか別の静けさに触れていた。
やがて立ち上がり、
再び歩き出す。
池を背にしても、しばらくは、
あの青が目の裏に残っていた。
何も語らず、何も教えない。
それなのに、
深く深く、染み込んでくるものがあった。
その青の記憶は、
歩くほどに薄れていったが、
ある一点を超えると、消えることなく定着した。
それが、この地の力だったのだろう。
何かを語るのではなく、
ただ沈黙を通して、
すべてを内包するということ。
その深淵を前に、
私はただ、静かに立ち尽くしていた。
あの池の青は、色ではなかったのかもしれない。
それは、記憶や時間や、沈黙そのものが凝縮された、
存在しないはずの「空間」だった。
言葉にできない何かが、確かにそこにはあった。
そして私は、それを心に持ったまま、
また、旅を続けている。