泡沫紀行   作:みどりのかけら

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誰もいない朝を、ひとりで歩くことがある。
それは忘れられた神殿を訪ねるようでもあり、かつて夢で見た光景を、現実の中でたぐり寄せるようでもある。

足音のしない旅の途中、静かに心の底を撫でてくる風景に出会うことがある。
言葉にならないその景を、私は紙に移す。

それは、もう誰も触れられない記憶の輪郭。
けれど、きっと誰かの奥深くで、静かに呼吸している光。


0060 火の神の涙

 

白い霧が朝の輪郭をぼやかし、音なき時間が森を満たしていた。

足元を撫でる湿った苔の感触が、昨日よりも柔らかく思えたのは、夜の間に空から静かに落ちてきた記憶が、地を優しく潤したからだろう。

 

道と呼べるほどの輪郭はない。

ただ、草と岩と静寂が折り重なる細い隙間に、私は身を滑らせるように歩いていた。

 

空は、まだ本当の色を思い出せないままに灰青を張りつけている。

けれど、その遥か向こう、薄明かりの内側で、ひとつの山がそっと姿を浮かべていた。

 

そのかたちは、美しさという語では足りない。

裂けた尾根と滑らかな斜面がひとつに重なり、荒々しさと優しさが不思議な均衡を保っている。

まるで、かつて怒り狂った神が、自らの傷を抱きしめるようにして眠りについた姿。

 

その裾野をたどるようにして、湖が広がっていた。

鏡よりも深く、夜よりも静かなその水面には、空の色も木々の葉も、一切の迷いも沈んでいる。

風がない。

音がない。

 

水の気配が、まるで重力を持っているように思えた。

立ち止まれば、足元から吸い込まれてしまいそうだった。

 

湖畔には、名も知らぬ白い花が咲いている。

火山灰にも似た細かな砂の上で、それらは一斉にこちらを見ていた。

咲くというより、祈るように。

あるいは、忘れかけた何かを、ただ懸命に憶えていようとする姿。

 

私はその花のひとつに触れた。

 

冷たさと温もりが同時に指先に宿る。

過去と未来が入り混じる刹那のような感触。

 

ここに吹く風は、はるか昔に、誰かが泣いた時に生まれたのではないか。

この山が炎を吐いたとき、天がその痛みに気づいて流した雫が、やがて湖となったのではないか。

そんな想像が、現実よりも確かな真実のように感じられる。

 

ときおり、湖の奥から低く震える音が聴こえた気がした。

それは地の底から、忘れられた神の鼓動のようでもあり、

あるいは、かつてこの地を歩いた誰かの足音の残響なのかもしれない。

 

私は、ただ黙って歩いた。

花を避け、石を踏み、木の影に耳を澄ませながら。

 

ふと、水面に目を落とすと、そこには一羽の白い鳥が浮かんでいた。

羽をたたみ、身じろぎひとつせず、まるでこの景の一部であるかのように。

その姿は、もう一人の自分が、ずっと前からそこにいたかのような既視感を抱かせた。

 

目を閉じると、光が脳裏に焼きついた。

山と湖と、白い鳥と、祈る花たち。

 

すべてが永遠に続く夢のようでありながら、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように儚い。

 

湖の端に、倒れた木が横たわっていた。

苔がその全身を覆い尽くし、時の流れに逆らうことなく、まるで眠る獣のように静かにそこにいた。

私はその上に腰を下ろし、風の声に耳を預けた。

 

空はゆっくりと色を変え始めていた。

灰青はやがて金に、金はまた白に。

雲が割れ、光が射し込むと、湖の底に沈んだ記憶たちがふたたび目を覚ます。

 

その光は、確かに山の頂にも触れていた。

長く乾いた傷跡のような尾根に、柔らかな白が宿り、

ひととき、そこに在るすべてのものが、赦されているように見えた。

 

私はただ、静かに、目を凝らしていた。

この風景を、この痛みを、この優しさを、胸の奥に焼きつけようとするように。

 

もう二度と来ることはないと、最初から知っていた。

けれど、それでも、何かを残すように、私はまた歩き出した。

 

踏みしめる苔の柔らかさが、少しだけ違っていた。

それは、さよならの感触だった。




白の記憶は、誰の中にもある。
それは、遠い過去の哀しみかもしれないし、
まだ訪れていない未来の祈りかもしれない。

私はただ、そこに流れていた風を、
そっと掌にすくって、言葉にしただけだ。

もし、あなたの中に似た景色が宿っていたなら、
それはきっと、まだ消えていないもの。

風は過ぎ、花は祈り、
山は眠り、湖は記憶を抱く。

私は歩き、そして、立ち止まっただけだった。
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