泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩くほどに、音は少なくなり、匂いは濃くなる。
土は湿り、空は高く、季節は名を持たないまま肩に触れる。
足裏に残る重みだけが、ここへ至る道の確かさを教える。

立ち止まらずとも、立ち止まったような静けさが、身体の奥にゆっくりと広がっていく。


616 古刹を包む時忘れの桜舞

山の端に薄い霧がほどけ、湿った土の匂いが足裏から立ち上がるころ、坂は自然に歩幅を小さくさせた。

石は丸みを帯び、苔は水を含んで深い緑に沈んでいる。

踏みしめるたび、過去の足音がかすかに重なるようで、身体の内側が静かに遅れてゆく。

息は浅く、耳は遠く、視界だけが澄んでいった。

 

 

道の終わりに、古い木立がゆるやかな門を形づくっていた。

柱も名も持たぬ門だが、境を越える感触だけは確かにある。

背を屈めると、枝先から落ちた花びらが肩に触れ、冷たい水のように一瞬の重みを残した。

風は止み、音という音が柔らかく折り畳まれている。

 

奥に佇む建物は、時間を忘れることを仕事にしているようだった。

木肌は乾き、割れ目には影が溜まっている。

踏み板に足を置くと、わずかな軋みが胸の奥まで伝わり、歩いてきた距離がひとつに束ねられた。

手すりに触れる指先は冷え、木の繊維の向きが掌に残る。

身体が場所を測り、場所が身体を測り返す。

 

庭の中央に、垂れ下がる枝が水面のように揺れていた。

薄紅は空気に溶け、落ちる前から重さを手放している。

花は声を持たないが、静けさを整える力を持つ。

花びらが地に触れるたび、音のない拍が刻まれ、数えられない時間が均されていく。

枝の影は地面に書を描き、読む者のいない文字を連ねる。

 

歩み寄ると、花の香は甘さよりも湿りを帯び、鼻腔の奥で微かに疼いた。

目を閉じると、瞼の裏で薄紅が波打ち、遠い季節の輪郭が触れては離れる。

胸の内で何かが整えられ、欠けていた調子が戻る気配だけが残る。

言葉は生まれず、代わりに呼吸が深くなった。

 

足元には、落ちた花びらが重なり、白に近い色へと変わっている。

踏むのを避けても、風は選ばずに散らす。

衣に付いた花は、しばらくしてから重さを思い出したように落ち、短い軌跡を描いた。

時間はここで溜まり、溜まったまま流れない。

流れないからこそ、耳を澄ますと微かな動きが聞こえる。

 

建物の縁に腰を下ろすと、冷えた木が体温を奪い、代わりに静けさを渡してくる。

掌を開けば、花粉の感触が砂のように残り、拭っても消えない。

視線を上げると、枝は空に触れ、空は枝に触れ返す。

触れ合いの境目で、風が一度だけ通り過ぎ、花の群れが揺れた。

揺れはすぐに収まり、何事もなかったように、春はその場に留まり続ける。

 

庭を離れ、建物の背後へと回り込むと、地面はゆるやかに起伏し、石段は低く呼吸を刻むように続いていた。

段差の角は磨耗し、数え切れない足の重みを受け止めてきた形を保っている。

上るたび、腿の内側に熱が生まれ、身体は現在へと引き戻される。

汗は出ないが、皮膚の内側が春に応える。

 

石段の終わりに、小さな空き地があり、落葉と花びらが混じって薄い層を成していた。

踏み入れると、柔らかな抵抗が足裏に返り、土の湿りが伝わる。

層の下には固い地があり、その確かさが心拍を落ち着かせる。

見上げると、垂れた枝が空を裂くように重なり、光は細く、しかし十分に届いている。

 

 

枝の先から、花が一枚、ゆっくりと離れた。

落下は直線ではなく、迷いを含み、空気の襞に沿って揺れた。

触れれば壊れそうな軽さが、地に至るまでの間、確かな存在感を保つ。

その間、呼吸が一拍遅れ、胸の奥に空白が生まれた。

花は音を立てずに着地し、空白は静かに埋め戻された。

 

空き地を抜け、さらに歩くと、細い小径が林へと続く。

根が露出し、歩幅は自然と慎重になる。

転ばぬように視線を落とすと、苔の粒立ちや、枯れ枝の影がはっきりと現れる。

細部に集中することで、思考は薄まり、感覚だけが前に出る。

身体は場所に従い、場所は身体を導く。

 

 

林の中ほどで、風が一度、向きを変えた。

冷えと温みが交差し、衣の内側で小さな渦を作る。

枝葉が擦れ、短い音が生まれ、すぐに消えた。

音が消えた後の静けさは、先ほどよりも深い。

深さは暗さではなく、澄み切った透明さに近い。

視界の端で、光が揺れ、時間の端がほどける。

 

歩みを止め、背筋を伸ばす。

遠くで水が動く気配があるが、姿は見えない。

見えないものに向けて耳を澄ますと、内側のざわめきが収まり、代わりに規則正しい鼓動が浮かび上がる。

鼓動は道標のように、次の一歩を指し示す。

足を出すと、地はそれを受け入れ、拒まない。

 

 

林を抜けると、再び建物の側面に出た。

影は短くなり、春の光は均されている。

壁に手を触れると、昼の温みが残り、指先に穏やかな抵抗が返る。

木目は流れを持ち、触れることで視線が動く。

視線が動くと、思いもまた動き、固定されていた何かが緩む。

 

 

庭に戻ると、先ほどの花の群れは、少しだけ姿を変えていた。

落ちた分だけ、枝は軽く、空は広く見える。変化は小さいが、確かだ。

小さな変化を見逃さないことが、この場所の作法のように思われた。

腰を下ろし、しばらく動かずにいると、身体の内外の境が薄くなる。

 

 

目を閉じても、薄紅は消えず、むしろ輪郭を増す。

過ぎ去った季節と、これから来る季節が、ここで重なり、互いに干渉しないまま共存している。

整えられた調子は、過剰に主張せず、静かな基準点として留まる。

立ち上がると、その基準は足裏に移り、次の歩みへと受け渡された。

 

 

去る時刻を決める必要はない。

花は散り、枝は揺れ、建物は佇む。

すべてが役割を果たし、役割から自由でもある。

背を向け、歩き出すと、背後で音は立たない。

それでも、振り返らずに進めるのは、ここに置いてきたものが、失われないと知っているからだ。

薄紅は視界から消えても、呼吸の奥で、春は静かに舞い続けている。




離れてゆくほど、輪郭はやわらぎ、代わりに調子が残る。
薄紅は視界にないが、歩幅は整い、呼吸は深い。

土の匂いは次の風に溶け、音は再び生まれる。
それでも、ひとつの基準点は消えず、足裏から胸へ、静かに受け渡されていく。
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