泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白の地に立つとき、言葉は沈黙に変わる。
風が語り、光が触れ、すべての始まりがそこにあると錯覚する。
けれどそれは錯覚ではない。
人は時折、世界の輪郭を目撃する場所へ辿り着くのだ。

それは、名もなく、物語の外にある静けさの中。
この旅の朝もまた、そんな地で始まった。


0063 黎明の舞台

白い砂利が音もなく砕けて、足元に微かな抵抗を残した。

夜の名残が空の高みでゆっくりと剥がれ落ちていく。

濃紺と群青のあわいが交わり、世界はまだ夢の中にあるようだった。

風は絶え間なく吹いていた。

肌に鋭く、喉に乾いて、心に静かだった。

 

進むたび、風の重さが変わる。

それは見えない波のように背を押し、また引き戻す。

歩むことさえ、祈りのようだった。

ただ一歩、一歩、音もなく。

背後には深く凍てついた夜が広がり、前方には何もなかった。

 

やがて、大地は切り立ち、細く尖りながら、空へと跳ねるような曲線を描いた。

そこには言葉が存在しなかった。

鳥の声も、獣の気配もない。

あるのは、風と岩と、波の断片。

砕け、舞い、泡となり、消えていく白。

 

見上げると、空の底がほんのわずかに赤みを帯びていた。

それはただの予兆ではなかった。

長い眠りのなかで、ようやく目覚めの兆しが動き始めていた。

大地が息を吸い、海が静かに揺らいだ。

そして空が、ゆっくりと、焼けていく。

 

金でもなく、炎でもなく、ただ淡い。

指の隙間を通り抜ける光。

まるで生まれたばかりの命のように、脆く、強い。

 

岩肌はその光を受け、白く滲み、影を持たなかった。

その瞬間、すべてが停止する。

風も、波も、歩みさえも。

 

ただ、昇る。

空を裂きながら、陽がひとつ、昇る。

輪郭は滲み、光は溢れ、世界を染め上げる。

その姿は、ただ神秘でも荘厳でもなく、懐かしかった。

遠い記憶の中に、すでにあったもののように感じられた。

 

光に照らされた海は、静かに沸き立ち、銀の羽を散らすように波打った。

そこに時の感覚はなかった。

昨日も、今日も、明日も存在せず、ただ“今”が澄みきって流れていた。

 

足元にある草は、風にしなるたび、冷たい露を空へと解き放った。

すべてが生きていた。

風も、岩も、光も。

それは、生きているというよりも、「在る」と言う方がふさわしかった。

 

朝のはじまりとは、こんなにも静かなものなのか。

目の前に広がる景色は、息を呑むというより、息を返すようだった。

深く吸い込んで、ゆっくりと放つ。

それが、この場所の礼儀のように思えた。

 

やがて陽は高く、世界の輪郭をひとつひとつ照らし始める。

先ほどまで灰色だった岩が赤みを帯び、風の道が見えはじめる。

一筋の草が陽に向かって首を傾けたとき、確かに時が動いた。

 

歩を進める。

陽に向かってではない。

陽に照らされた道を選ぶのでもない。

ただ、その場にいた風と共に、次の空白へ向かって。

 

この場所に名はない。

あるいは、名を呼んではならないのかもしれない。

それほどまでに、ここは在るべき姿のままだった。

 

白く、寒く、温かく、そして、永遠だった。





永遠は遠くにあるものではなかった。
凍てついた岩の奥に宿り、風の刃に乗り、昇る光に姿を変えていた。

世界が動く音を聴いた気がした。

誰も知らない時のはざまに、一瞬だけ触れたような感触。
そこにあったのは景色ではない。
記憶だった。

白のなかに、確かに刻まれた記憶。
名もなき地が、静かにそれを抱いていた。
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