泡沫紀行   作:みどりのかけら

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夜という名の静寂が、地上を包むことがある。
それは闇ではなく、すべての音が内に沈み、時が足を止めたような、
そんな透明な瞬間。

旅の途中、ふと迷い込んだその場所は、
まるで雪が記憶を彫りあげた白の聖域だった。
灯りはなく、音もなく、ただ“何か”が、確かにそこに在った。

それは風ではなく、声ではなく、
ただ、消えゆく夢の温度だった。


0065 雪精の祝宴

雪は声を持たぬままに降り続けていた。

ひとひら、またひとひらと、まるで天の奥底から失われた音楽が静かに舞い降りるかのように。

私は黙したまま、ひび割れた雪道を歩いていた。

足音は吸い込まれ、何もかもが沈黙の下に横たわっていた。

 

やがて、森の縁を抜けた先に、白の王国が忽然と姿を現した。

巨大な城、氷に覆われた神殿、空を仰ぐ獣たちの群れ。

すべてが雪と氷だけで築かれ、命のないものたちが、あまりに美しく立ち尽くしていた。

まるでそれぞれに、長い時間を抱いていたかのように。

 

その群像の中に立ち入ると、世界は息を潜めて待っていた。

空は曇天、陽は消え、ただ青白い光だけが、どこからともなく雪面に滲んでいた。

その光は火でもなく、灯でもなく、まるで雪そのものが内から淡く発光しているように感じられた。

歩を進めるたび、靴裏にひんやりとした音が響き、感覚は次第に鈍くなっていく。

 

大きな獅子の像が睨む丘の上から見下ろすと、広場全体が静かな祭壇のようだった。

雪の天幕の下に、ひとつとして同じものはない彫像たちが、あるものは膝を折り、あるものは翼を広げ、

まるで遠い昔、ここで何か大いなる儀式が行われていたかのような気配を漂わせていた。

 

そこには人の気配がなかった。

いや、感じることはあった。

けれどそれは、かつてここに集ったものたちの記憶のようであり、

雪精たちの見えない指先が、いまも形を撫でているようでもあった。

 

風が吹いた。

どこか遠くで風鈴のような音がした。

それは、氷柱がふれあい奏でる音かもしれなかったし、

彫像のなかに囚われた声が一瞬だけ漏れ出たものかもしれなかった。

 

私は手を伸ばした。

だが、その硬く、透きとおる輪郭には触れず、指はただ空を掴むだけだった。

それでも、心には何かが伝わっていた。

たとえば、それがこの地にこぼれた祈りの記憶だとしても、疑う術はなかった。

 

やがて空は青から紫へと沈みゆき、薄闇の帳が静かに広がってゆく。

そのときだった。

彫像たちが、一斉に輝き始めた。

 

明滅する光ではない。

一つひとつが、内に抱いた魂の名残を、静かに灯しているようだった。

その灯は炎ではなく、夢の残滓のように儚く、それでいて凛としていた。

まるで、雪の精たちが舞踏会の幕を開けたのだと告げているようだった。

 

獣たちは足を止め、空を仰ぎ、

塔は長い睫毛のように空へと延びて、星々を迎え入れていた。

舞うものは風か、光か、それとも記憶か。

そのすべてが静謐の中に融けていた。

 

私はいつしか、その祝宴のひとつの影となっていた。

まるで、この夜のために選ばれた傍観者のように。

誰にも気づかれず、誰の存在も感じさせず、ただ雪の中で呼吸をしていた。

 

ここでは時間も言葉も意味を持たなかった。

ただ降り積もる白だけが、過去を覆い、未来を拒み、

永遠に続く一夜のために、すべてを沈黙へと染めていく。

 

私はただ、歩き続けた。

雪精たちが織り成す無音の舞踏会を、

その灯火と陰影の狭間を、

足元のひんやりとした記憶を踏みしめながら。

 

光はやがて空に溶け、

闇が柔らかに雪を包むと、

彫像たちは再び静寂に戻っていた。

 

けれど、私は知っている。

この祝宴は終わらぬのだと。

今この瞬間も、どこかでまた、雪が声なき歌を舞い始めていることを。




光は踊り、雪は囁き、
すべてが白の内側で生まれては、静かに消えていった。

けれど、あの彫像たちは今も変わらずそこにいるのだろう。
雪精の宴が繰り返される、誰にも見えない夜の奥で。

私はただ、その欠片に触れた旅人に過ぎない。
だが、あの無音の記憶が胸に残したものは、
声よりも、言葉よりも、深く冷たく、やさしかった。
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