泡沫紀行   作:みどりのかけら

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白は始まりを持たない。
踏み入れた瞬間から、すでに続きの中にいる。
冷えは名を名乗らず、息は形を持たず、ただ歩みだけが、次の一歩を呼ぶ。


足裏が雪を確かめるたび、身体は外へ向かいながら、内へ沈んでいく。
遠くで水が息をしている気配があり、近くでは沈黙が重く、軽い。
冬は覆うのではなく、削り、余白をつくる。


その余白に、記憶にならない何かが置かれる。
置かれたことに気づく前から、歩きは始まっている。



681 幻の獣が湯煙に溶ける再生の秘湯

冬の息が地表に伏せられ、白は音を吸い、足音だけが遅れてついてくる。

歩みは薄い雪を割り、湿りを帯びた冷えが脛から忍び上がる。

息を吐くたび、胸の内側に小さな雲が生まれ、すぐに消える。

その消え方に、長く歩いてきた時間が重なっていた。

 

 

谷は狭まり、岩は丸みを帯び、水の匂いが空気に溶ける。

凍りきらない流れが、低く息をしている。

指先に触れた風は、冷たさの奥に柔らかさを含み、遠くで湯気が立ち上がる気配を運んでくる。

目を細めると、白と白のあわいに、温もりの輪郭が滲んでいた。

 

 

雪はここで薄くなり、地は黒く濡れている。

歩みを止めると、耳の奥で静けさが膨らむ。

湯煙は形を持たず、ただ生まれては解け、解けては生まれる。

肌に触れると、冷えと温が同時に訪れ、身体の境目が曖昧になる。

衣を解き、足を沈める。

熱は強すぎず、深すぎず、冬に対する答えとして用意された温度だった。

 

 

石の縁に腰を下ろすと、湯は膝を包み、太腿へと忍び寄る。

皮膚の下で眠っていた感覚が目を覚まし、長い歩みの重さが、ゆっくりとほどけていく。

湯面に落ちた雪は、ためらうように浮かび、やがて消える。

その消え際に、胸の奥の硬さが少し欠けた。

 

 

湯煙の向こうで、白が動いた。

風のいたずらか、視線の癖か。

だが、そこには確かに、柔らかな背の線があった。

毛並みは雪よりも淡く、尾は湯気に溶け、足取りは音を残さない。

こちらを見るでもなく、ただ輪郭だけを保ったまま、温もりの境を横切る。

獣は幻のようで、しかし幻にしては、湯面に落とす影が静かすぎた。

 

 

視線を追うと、岩陰に消え、跡形もなくなる。

残ったのは、湯の揺れと、胸に生じた微かな空白。

空白は恐れではなく、古い記憶が呼吸を変えたときの感触に似ている。

生まれ変わるという言葉を、ここでは誰も口にしない。

ただ、湯が巡り、白が解け、身体が軽くなる。

それだけで、十分だった。

 

 

湯から上がると、冬は再び爪を立てるが、先ほどよりも優しい。

濡れた足裏が石を確かめ、歩みは確実になる。

湯煙は背後で輪を描き、見えない円環がここに残る。

歩き出すと、白は再び音を吸い、息は胸の内で静かに整う。

谷は狭まり、道は続き、温もりの記憶だけが、身体の奥で淡く灯り続けていた。

 

 

歩みを重ねるうち、足先に残る温は薄皮のように剥がれ、代わりに内側から別の熱が満ちてくる。

冷えは相変わらず鋭いが、拒むものではなく、輪郭を確かめるための指先のようだった。

雪は再び深くなり、踏みしめるたび、鈍い音が腹に響く。

白の静けさは、思考の余地を奪い、ただ呼吸と鼓動だけが、確かなものとして残る。

 

 

樹々は葉を落とし、骨のような枝を空へ差し出す。

空は低く、灰色の層が重なり、光は薄く均されている。

その下で、影は短く、すべてが等しく淡い。

歩きながら、手袋の内で指を動かす。

湯に触れた感覚は、まだ指の間に留まり、失われるのを拒んでいるかのようだった。

 

 

やがて、風向きが変わる。鼻腔に残る湿りは消え、代わりに乾いた冷気が満ちる。

それでも、あの場所の匂いは、身体の奥に沈殿している。

湯煙に溶けた獣の背、音を残さない足取り、視線を交わさぬまま通り過ぎた瞬間。

そのすべてが、確かでありながら、確かでない。

雪原を渡る今の足音の方が、よほど現実的だというのに。

 

 

立ち止まり、振り返る。そこには白が連なり、来た道も行く道も区別がつかない。

ただ、足跡だけが、時間の方向を示している。

足跡はやがて埋もれ、消えるだろう。

その予感に、奇妙な安らぎがあった。

消えることは、失うことではなく、巡ることに近い。

湯が冷え、雪が解け、水が流れ、再び湯気となる。

その輪の中に、身体もまた、ひととき預けられただけだ。

 

 

歩みを再開すると、斜面は緩やかに下り、雪は粉のように軽くなる。

足裏の感覚が変わり、地の硬さが伝わる。

疲労は確かにあるが、重さはない。

内側に空いた微かな空白が、余計なものを落とし、必要な重さだけを残している。

息は深く、一定で、胸の奥に澄んだ響きがある。

 

 

ふと、白の向こうに動く影を感じる。先ほどの獣かどうかは分からない。

確かめる理由もない。

ただ、その気配が、こちらの歩みに重なり、同じ速度で並んでいるように思えた。

視線を向ければ消え、意識を外せば近づく。

そんな距離が、心地よい。

孤独ではなく、同伴でもない。

その中間にある、静かな連なり。

 

 

やがて、空がわずかに明るむ。

雲の切れ目から、淡い光が雪面に落ち、無数の粒が瞬く。

その光は温を持たないが、確かに目を覚まさせる。

足を止め、雪を掬う。指の熱で形を失い、水となって掌に残る。

その冷たさは、湯の記憶と混じり合い、どちらでもない感触を生む。

 

 

再び歩き出す。道は続き、終わりを示すものは何もない。

ただ、身体の内側で、何かが静かに回り始めている。

それは言葉にならず、形も持たず、ただ確かな回転として存在する。

冬は深く、白は広く、歩みは小さい。

それでも、湯煙に溶けた幻と、足裏に残る熱が、今を支えている。

 

 

振り返らず、前を向く。

背後で輪が閉じ、前方でまた開く。

その連なりの中で、歩くことそのものが、再び生まれるための動作であるかのように、静かに、確かに、続いていく。

 




白は終わりを拒まない。
振り返れば、すでに輪は閉じ、足跡は輪郭を失っている。
冷えはやがて温へ溶け、温はやがて冷えへ戻る。


歩みの中で得たものは、持ち帰られず、しかし失われもしない。
身体の奥で静かに回るそれは、名前を持たないまま、次の冬を待つ。
待つことさえ意識されず、ただ、歩くという動作の中に沈み、また浮かぶ。


白は続き、続きは白に還る。
輪は語られず、しかし確かに、ここにある。
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