泡沫紀行   作:みどりのかけら

7 / 1179
霧の向こうに、
世界があると信じていた。

歩くたび、白は深まり、
音が消えていく。

それは不安ではなく、祝福に近かった。

朝陽に触れたその霧が、
やがて光の輪を描き、
私のまわりに、静かな楽園をひらいた。


0007 光輪の楽園

夜明け前の空は、まだ深い藍を保っていた。

 

 

 

私は眠るように静かな尾根を歩いていた。

霧が、肩に触れた。

それは冷たくはなかった。

やわらかく、温もりすら帯びているようだった。

 

 

 

地面は苔と草に覆われていた。

靴の底が沈み、かすかな湿りが音を吸い込む。

 

鳥の声も、風の囁きも、

ここではどこか遠い世界のものに感じられた。

 

 

 

霧の濃さは一定ではなかった。

時おり晴れ間のように空間が開け、

すぐにまた白が戻ってくる。

 

まるで、霧自体が呼吸をしているようだった。

 

 

 

歩くことだけが、現実だった。

 

地図も道標もない。

だが、進むべき方向だけは不思議と分かっていた。

 

山肌に添いながら、

私はひたすら上を目指した。

 

 

 

霧は、濃くなった。

 

そのなかで、世界の輪郭は失われていく。

 

地と空の境界は曖昧になり、

手を伸ばしても、指先すら白に溶け込んでしまう。

 

それでも私は歩いた。

 

すべてが失われていくなかで、

自分の存在だけが、はっきりと輪郭を持ちはじめていた。

 

 

 

やがて、足元の傾斜がゆるやかになった。

 

風が、霧のなかを走り抜ける。

濃密な白が、わずかに裂けてゆく。

 

 

 

そして、現れた。

 

 

 

眼下に広がる、雲の海。

 

それは山肌からこぼれ落ちそうなほど、

厚く、やわらかく、光を宿していた。

 

雲というよりは、ひとつの静かな生き物だった。

 

波のようにうねり、

風に応じて表情を変える。

 

 

 

私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。

 

言葉も出なかった。

ただ、胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じていた。

 

 

 

そして、空が染まり始めた。

 

薄紅の気配が、東の端に滲んだ。

それは、声なき合図だった。

 

空気がふるえ、雲がざわめく。

 

 

 

朝陽が昇る。

 

その瞬間――

 

 

 

光が、輪になった。

 

 

 

自分の影を背にして見下ろした先。

白い霧と雲のあいだに、

淡く、しかし確かな光の環が浮かんでいた。

 

 

 

金でもなく、銀でもない。

 

淡く虹を含んだその輪は、

私を中心として、静かに漂っていた。

 

 

 

何かを祝うように。

何かを抱くように。

 

霧と光がひとつになって、

世界に“輪郭”を与えていた。

 

 

 

私はそこで、

はじめて世界の中心に立ったような気がした。

 

 

 

音はなかった。

ただ、光と霧の呼吸だけがあった。

 

 

 

太陽が昇るにつれ、

光の輪は淡くなり、やがて霧も消えていく。

 

それは失われていくというより、

還っていくように見えた。

 

 

 

私は目を閉じた。

 

 

 

白く、やわらかく、

そして静かなあの霧。

 

それは風景ではなく、

記憶そのものだったのかもしれない。

 

 

 

やがて、すべてが消えた。

 

雲は裂け、空は青く澄み、

足元には乾いた風が吹きはじめていた。

 

 

 

私は、もう一度だけあの場所を振り返り、

そして、歩き出した。

 

 

 

光の輪は、もう見えなかった。

 

だが、心のなかではまだ、

あの静けさが確かに残っていた。

 

 

 

それで、よかった。

 

 

 

その後、私は山を降りた。

 

降りながらも、何度も足を止め、

振り返りたくなる衝動に駆られた。

 

だが、そのたびに空は少しずつ色を変え、

朝は普通の顔を取り戻していった。

 

 

 

そして気づく。

 

あの光は、霧のなかでしか現れない。

あの楽園は、

朝の輪郭がまだ整わぬ、

ほんのわずかな“あわい”にだけ現れるものなのだと。

 

 

 

そのことが、

なぜか嬉しかった。

 

 

 

私の歩く理由は、

決して形のあるものを手に入れるためではないのだ。

 

 

 

姿を消してしまう光を、

静かに胸に灯すため――

それが、この旅路なのだと。




あの光の輪は、
見るために行くものではなかった。

歩き、霧のなかを迷い、
やがて辿り着いたとき、
自然とそこに“現れる”ものだった。

私はそれを見て、
ただ静かに、世界の祝福を受け取ったのだと思う。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。