世界があると信じていた。
歩くたび、白は深まり、
音が消えていく。
それは不安ではなく、祝福に近かった。
朝陽に触れたその霧が、
やがて光の輪を描き、
私のまわりに、静かな楽園をひらいた。
夜明け前の空は、まだ深い藍を保っていた。
私は眠るように静かな尾根を歩いていた。
霧が、肩に触れた。
それは冷たくはなかった。
やわらかく、温もりすら帯びているようだった。
地面は苔と草に覆われていた。
靴の底が沈み、かすかな湿りが音を吸い込む。
鳥の声も、風の囁きも、
ここではどこか遠い世界のものに感じられた。
霧の濃さは一定ではなかった。
時おり晴れ間のように空間が開け、
すぐにまた白が戻ってくる。
まるで、霧自体が呼吸をしているようだった。
歩くことだけが、現実だった。
地図も道標もない。
だが、進むべき方向だけは不思議と分かっていた。
山肌に添いながら、
私はひたすら上を目指した。
霧は、濃くなった。
そのなかで、世界の輪郭は失われていく。
地と空の境界は曖昧になり、
手を伸ばしても、指先すら白に溶け込んでしまう。
それでも私は歩いた。
すべてが失われていくなかで、
自分の存在だけが、はっきりと輪郭を持ちはじめていた。
やがて、足元の傾斜がゆるやかになった。
風が、霧のなかを走り抜ける。
濃密な白が、わずかに裂けてゆく。
そして、現れた。
眼下に広がる、雲の海。
それは山肌からこぼれ落ちそうなほど、
厚く、やわらかく、光を宿していた。
雲というよりは、ひとつの静かな生き物だった。
波のようにうねり、
風に応じて表情を変える。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
言葉も出なかった。
ただ、胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じていた。
そして、空が染まり始めた。
薄紅の気配が、東の端に滲んだ。
それは、声なき合図だった。
空気がふるえ、雲がざわめく。
朝陽が昇る。
その瞬間――
光が、輪になった。
自分の影を背にして見下ろした先。
白い霧と雲のあいだに、
淡く、しかし確かな光の環が浮かんでいた。
金でもなく、銀でもない。
淡く虹を含んだその輪は、
私を中心として、静かに漂っていた。
何かを祝うように。
何かを抱くように。
霧と光がひとつになって、
世界に“輪郭”を与えていた。
私はそこで、
はじめて世界の中心に立ったような気がした。
音はなかった。
ただ、光と霧の呼吸だけがあった。
太陽が昇るにつれ、
光の輪は淡くなり、やがて霧も消えていく。
それは失われていくというより、
還っていくように見えた。
私は目を閉じた。
白く、やわらかく、
そして静かなあの霧。
それは風景ではなく、
記憶そのものだったのかもしれない。
やがて、すべてが消えた。
雲は裂け、空は青く澄み、
足元には乾いた風が吹きはじめていた。
私は、もう一度だけあの場所を振り返り、
そして、歩き出した。
光の輪は、もう見えなかった。
だが、心のなかではまだ、
あの静けさが確かに残っていた。
それで、よかった。
その後、私は山を降りた。
降りながらも、何度も足を止め、
振り返りたくなる衝動に駆られた。
だが、そのたびに空は少しずつ色を変え、
朝は普通の顔を取り戻していった。
そして気づく。
あの光は、霧のなかでしか現れない。
あの楽園は、
朝の輪郭がまだ整わぬ、
ほんのわずかな“あわい”にだけ現れるものなのだと。
そのことが、
なぜか嬉しかった。
私の歩く理由は、
決して形のあるものを手に入れるためではないのだ。
姿を消してしまう光を、
静かに胸に灯すため――
それが、この旅路なのだと。
あの光の輪は、
見るために行くものではなかった。
歩き、霧のなかを迷い、
やがて辿り着いたとき、
自然とそこに“現れる”ものだった。
私はそれを見て、
ただ静かに、世界の祝福を受け取ったのだと思う。