泡沫紀行   作:みどりのかけら

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風に季節が宿るのなら、
この地に吹く風は、まさに記憶そのものだった。

歩き旅は、ただの移動ではない。
それは、時の層をひとつひとつ剥がしていくような行為だ。
そして、ある場所では、剥がすたびに懐かしさがあふれ、まだ見ぬ風景のはずなのに、まるで自分の中にずっと在りつづけたかのような錯覚に包まれる。

今回、足が向いたのは、白の中に静かに燃える秋の幻影。
すべてが色を変え、それでいて、なにも変わらない場所だった。


0073 紅葉の幻影

森の縁に立つと、風の音が変わった。

それは低く、深く、まるで遠い昔の記憶が呼びかけるようだった。

小道は苔を踏みしめながら、ゆっくりと白んだ空へ向かって延びている。

足音は湿った落ち葉に包まれて、やがて音を失った。

 

木々はすでに半ば裸となり、枝のあいだから滲む空の光が、地上に薄紅の模様を描いていた。

空気には甘い腐葉の香りが漂い、それは過ぎた季節の名残を惜しむように肌へと絡む。

歩を進めるたび、何かを喪ったような寂しさが心に沈んでいく。

それでも目の奥には、あの色が離れなかった。

 

やがて、森の影が切れ、開けた場所へと出た。

そこに在ったのは、静かに時を抱いた白だった。

赤くもない、茶でもない、ただ、白に見える赤。

風に翻る紅葉と共に、それは静かに佇んでいた。

 

その姿は、まるで夢に出てくる館のようだった。

幾度となく季節をくぐり抜け、あらゆる色を映してきたはずの外壁は、今、燃えるような秋の中で、不思議なほど冷ややかに見えた。

けれど、それは拒絶ではなかった。

ただ、何も語らず、すべてを抱いていた。

 

窓という窓には影が落ち、そこに誰かの気配があるようにも見えた。

だが近づいても、風が吹くだけで、扉も軒も微動だにしなかった。

光は斜めに射し、赤と金の葉を壁に浮かべ、やがて静かに地面へ沈めた。

 

建物のまわりを、ゆっくりと歩く。

低い垣根の向こうには、古びた噴水の跡があり、その中には水のかわりに、積もった葉がふわりと眠っていた。

歩道には誰の足跡もなく、ただ風がすべてを消していった。

その無音こそが、この場所の真の姿なのだと思った。

 

赤い蔦がひとすじ、壁を這っていた。

まるで長い年月のなかで、やっとここまでたどり着いたかのように。

その葉は、今まさに色を手放そうとしていた。

指先で触れれば、風もないのに、はらりと落ちていった。

 

裏手に回ると、小さな林檎の木が一本、空を見上げていた。

すでに実を失い、枝だけが風に揺れている。

その静けさの中に、遠い誰かの笑い声が残っているように感じた。

もう戻らない時間を、白い壁はどこまでも無言で受け止めていた。

 

この場所に人がいた気配はある。

けれどそれは、いまここに在る者のものではなく、遥か昔に忘れ去られた、誰かの鼓動だ。

それが、赤い煉瓦を通して今もなお、どこかへ続いている。

 

風がまた吹いた。

大きく枝を鳴らし、落ち葉の海にさざなみを起こす。

ひとひらの葉が宙に舞い、私の肩に触れてから、静かに地に落ちた。

それだけのことで、胸の奥に微かな痛みが走った。

 

歩みを止め、振り返る。

白く沈黙するその建物は、まるでこの季節の夢そのものだった。

訪れる者の名も、離れる者の名も知らず、ただ、すべてを受け入れて立っていた。

 

空がさらに白む。

時間の流れがここだけ止まっているような錯覚が、頬をかすめる風と共に、肌に染みこんでいく。

その冷たさは優しさであり、永遠という言葉の一端だった。

 

ふと、遠くで鳥の声がした。

その一声で、夢から醒めたような気がした。

けれど、足元に積もった紅の葉が、ここが夢ではなかったことを静かに教えていた。

 

この白の記憶は、確かにこの地に息づいていた。

誰にも知られず、誰にも忘れられずに。

季節が巡るたび、またここへ戻ってくるのだろう。

 

歩き出すと、風が背を押した。

そして、あの建物は背後に静かに沈んでいった。

まるで、何も語らず、すべてを見送るように。




あの静けさは、きっと冬へと続いている。

けれど、秋の終わりに見たその白は、どこか永遠に閉じこめられた光のようで、ふたたび思い出そうとすると、指のすき間から零れ落ちていく。

旅という行為のなかには、出会いだけでなく、かすかな別れも含まれているのだと、この場所が教えてくれた。

次に訪れたとき、同じ風景はもうないかもしれない。
それでも構わないと思えるほど、確かに心に焼きついていた。

静かに、ただ静かに、あの白は今もそこに在るのだろう。
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