泡沫紀行   作:みどりのかけら

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見知らぬ風の音に導かれ、地図にない場所を歩く。
そこに名はなく、記憶だけが息づいている。
時に咲き、時に沈む、その風景の鼓動をただ見つめる。
目に映るものすべてが、遠い昔の約束のようだった。

この旅の記録は、現実の風景を通り抜け、静かに心の深い場所へと流れ込んでいく。
ひとつの季節とひとつの水辺が、永遠という名の白い記憶を抱きしめるまで。


0075 風渡る水庭

風が先に歩いていた。

それを追うように、わたしは足を進めた。

緩やかな起伏を越えて、翡翠を溶かしたような水面が遥かに広がる。

そこには始まりも終わりもなく、ただ、時間だけが静かに積もっていた。

 

水は一切の言葉を拒むように沈黙し、空を映すたび、その沈黙が深くなる。

陽はすでに高く、白い光が景色の輪郭を曖昧にしていた。

ひとつひとつの葉が、かすかな風に揺れながら、まるで呼吸をしているかのようだった。

ひまわりの群れが静かに咲いていた。

 

遠くから見ればそれは金色の炎のようで、近づけば、土に根差した無数の眼差しだった。

彼らは何も語らず、ただ、空を仰ぎ見ていた。

幾万の黄色が、季節の中に凍ったまま、時を待っていた。

風が彼らの間を縫い、羽衣のように香りを運んでいく。

 

水辺の近くに降り立つと、空気が変わった。

しっとりと肌にまとわりつくような湿り気が、旅の塵を洗い流すようだった。

石の上に腰を下ろすと、足元に広がるさざ波が、淡く白い泡を吐いては消していく。

音もなく、音だけがあった。

 

空には雲ひとつなく、光がすべてを照らしていた。

けれど、その光は強くなく、どこか哀しみに満ちていた。

陽射しにすべてを曝されながらも、風景は何かを秘めていた。

見えているのに届かないものが、この場所にはあった。

 

ふと、風が変わった。

背後の木々がざわめき、どこからか水の匂いが濃くなる。

振り返れば、苔むした岩のあいだから、透明な流れがゆるやかに顔を見せていた。

それはまるで、長い夢から覚めたばかりの生き物のようだった。

 

水路は湖へと続き、音を立てずにその身体を広げていった。

まるで、誰かの記憶の底をそっと撫でるように。

この場所には名がない。

けれど、確かにここにあったという実感だけが、胸の奥に降り積もる。

 

足元の影が伸び、やがて風がひまわりの海をかき乱した。

それはあまりにも優しく、逆に胸が痛むほどだった。

風の行方を見送ると、湖の対岸に、光の粒が踊っていた。

それは葉のすき間からこぼれた日差しか、それとも、湖が吐き出した一瞬の記憶か。

 

歩くたびに、風景はわたしの背後でそっと姿を変えていった。

同じ場所に戻ろうとしても、もうそれは違う時間の中にある。

だから、振り返らないまま、ただ歩いた。

白い陽と、青い水と、金の風が背中を押してくれる限り。

 

やがて道は細くなり、ひまわりたちが身を寄せるように並び立っていた。

その奥に、ひとつの小さな入江があった。

水が鏡のように、空も花も風もすべてを映していた。

そこには、自分の姿すら溶けていくような静けさがあった。

 

わたしはひととき立ち止まり、息を殺して、その景色に溶け込んだ。

時間が止まったわけではない。

ただ、動いていることさえ、どうでもよくなるほどの静寂があった。

まるで、すべてが永遠の途中で立ち尽くしているようだった。

 

あのひまわりたちは、来年もまたこの場所に咲くだろうか。

水は、また同じ風を抱くだろうか。

わたしはそれを知らないまま、ただこの景色の中に、心のいくばくかを置いていった。

再び歩き始めると、足元の土がやさしく音を立てた。

 

そして風はまた、わたしの前を歩いていった。

それはきっと、この道がまだ終わりではないというしるし。

風景の奥に潜む記憶が、わたしを試すように囁く。

行けるところまで行けばいい。

 

何も持たずに、すべてを抱いて。




風が止まったとき、すべては夢のようにほどけていった。
足元に残るひとすじの影、指先に宿る微かな陽。
それらがたしかに、あの場所を歩いた証だった。

風景とは、目に映るものではない。
心が立ち止まったその瞬間にだけ、ほんとうの姿をそっと明かすものなのだ。

記憶は水に溶け、風とともに遠くへゆく。
それでも、また歩いてしまう。
たった一度だけの静けさに、もう一度出会いたくて。
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