泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足音を飲み込む霧の道に、私はひとり分の静寂を持って踏み入った。

この旅は、名前を持たぬ景色たちと交わす、深い呼吸のようなもの。
書き留めるためではなく、ただ見届けるために歩き続ける。
やがて出会ったのは、色のない記憶と、形なき祈りが眠る地。

白く溶けたその沈黙に、私は静かに筆を濡らした。


0076 空白の祠

靴の裏に重く絡まる泥は、まだ夜を引きずっていた。

遠くを染めていた群青が、やがて白んでゆき、空が光を孕む前の、もっとも静かな刻が訪れていた。

風は息を潜め、草の波も眠りの深みに身を埋めている。

一歩ごとに、世界は古びてゆくようだった。

 

細く折れ曲がった道は、足音すらも沈黙に吸い込む。

濡れた木肌に触れるたび、過ぎ去った雨の記憶が爪の隙間に滲む。

見上げた枝はすでに葉を散らし、空の余白を広げていた。

その広がりの向こうに、湿原の白がぼんやりと浮かんでいた。

 

沼はまだ眠っていた。

けれど眠りながらも、そこに在るという確かさで世界を縫いとめている。

輪郭のほどけた水面に、霧が幾重にも重なり、まるで息づかいのようにゆっくりと揺れていた。

空が降りてくるような錯覚が、足元から全身へ染みわたる。

 

辺りは色を忘れていた。

黄でもなく、緑でもなく、ただ淡い灰の中に、時折きらめく白が現れては溶けてゆく。

それは霧なのか、沼の吐息なのか、あるいは、遥か昔に捨てられた祈りの名残なのかもしれなかった。

言葉はここでは意味を持たず、音ですら形を失っていた。

 

長く細い橋を渡る。

といっても、それは人の手で架けられたものではない。

倒れた樹が、いつしか道となったものだ。

苔が濃く張りつき、指を置けば冷たい水の記憶が皮膚の奥へ染みてくる。

 

渡りきった先に、祠があった。

だがそれは、誰かが信仰を刻んだ場所というより、風と光が偶然に創りあげた空白だった。

石もなく、形もなく、ただ地面がわずかに凹み、そこに草が生えぬだけ。

けれどそこには確かに、何かが“いた”という感触があった。

 

頭を垂れるでもなく、跪くでもなく、ただその空白の前に立ち尽くす。

背後で風が枝を揺らし、沼の霧がふと濃くなった。

全ての音が遠のき、内側から鼓動のような響きが聴こえてきた。

それは決して脅かすものではなく、むしろ懐かしさのようなものだった。

 

視線を落とすと、小さな白い羽根が落ちていた。

どこから来たのかもわからず、けれどそこにあることだけが自然だった。

それを拾うでもなく、吹き飛ばすでもなく、ただそのまま置いておくことにした。

祠は語らず、問いもせず、ただその空白を保っていた。

 

陽がゆっくりと昇る。

霧がほどけ、沼の水面が鏡のように空を映す。

かすかな風が指先を撫で、草の穂先がやわらかく笑った。

朝の気配が、すべてを包みはじめていた。

 

歩き出す背に、何も残らない。

ただ遠くで鳥が羽ばたき、見えぬ空にひとすじの光が差し込む。

記憶のなかに、その場所の名は刻まれない。

けれど、確かに“あった”という感覚だけが、いつまでも残り続ける。

 

世界の隙間にそっと佇むような場所。

それは永遠の白。

抱かれるように静かで、

すべてを許すような沈黙の祠。




記憶に残るものは、何も語らぬ場所だった。
誰に見つけられることもなく、ただ霧のなかで時を溶かしていた。
それでも、私の足はそこに辿りついたのだ。

永遠は遠いものではない。
忘れられることを選んだ白が、この旅の一頁となる。

そして私はまた、次の静けさを探して歩き出す。
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