泡沫紀行   作:みどりのかけら

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その地に辿り着いたとき、
私は言葉を忘れていた。

霧はただ静かに漂い、
足元の葉は濡れて、冷たく柔らかかった。

青い滝という言葉は、どこか現実離れしているが、
それを見たとき、私はようやくそれが意味するものを知った。

この記憶は、旅の中でふと胸に宿り、
またいつか夢の中で私を呼ぶだろう。


0077 黎明の輝斑

水音は、まだ目覚めぬ森の眠りを破らぬよう、囁くように響いていた。

足元を滑る土は、夜の名残りをしっとりと抱きしめて、歩みを優しく受け入れる。

白く煙る息を吐きながら、私は斜面をゆるやかに登っていた。

濃い霧が林の奥に立ち込めて、木々の影を溶かしながら、幻想と現実の境を曖昧にしている。

しずくの粒が、枝から静かに滴り、落ちるたびに世界は一度だけ震える。

その音がやがて連なり、やさしい旋律となって森を満たしていた。

 

やがて、音が変わった。

遠くから届く低い轟きが、霧の帳をくぐり抜けて胸を打つ。

それは鼓動のようでもあり、永遠の祈りのようでもあった。

少しずつ近づくごとに、苔の匂いが水の香りへと変わり、空気が澄んでいくのがわかる。

音はすでに鼓膜ではなく、骨の奥にまで染み入っていた。

葉の先が震え、地面の小石が微かに鳴った。

 

そこに、それはあった。

 

青い滝。

 

まるで大地がひとすじ、空を喉元から飲み込んでしまったかのように、深く、蒼く、静かに落ちていた。

滝というよりも、世界の裂け目。

そこから流れ出すものは、ただの水ではない。

光の粒子を抱きながら、春の冷気と共にほとばしる命の記憶。

白銀に縁取られた崖のあいだから溢れ、まるで時の始まりをなぞるように、下界へと落ちてゆく。

滝壺にたどり着いた水は、砕けながら青さをさらに濃くし、辺り一帯を染め上げていた。

 

霧が揺れるたび、青は幾重にも姿を変えた。

夜明け前の藍、氷に閉じ込められた湖の碧、忘却の彼方の群青。

そのすべてが滝に現れ、そして消えた。

風が通り過ぎると、水面はさざ波を立て、葉の影をまといながらまた静寂に戻る。

 

足を進めると、苔むした岩が現れ、霧に包まれたその輪郭はどこか生き物のように見えた。

岩の裂け目には小さな雫がたまり、それがまた一筋の流れとなって、滝の青へと還っていく。

森は音を吸い込み、風を飲み込み、水の声だけを残した。

世界にひとつだけの律動。

そして、そのすべてが、どこか懐かしかった。

 

この場所を、知っていたような気がした。

あるいは、忘れたことがなかったのかもしれない。

幼いころに夢の中で見た景色。

記憶の奥底に閉じ込めた誰かの瞳の色。

それらが今、目の前で滝となって流れている。

 

蒼いというより、深い白。

白とは、すべての色が混ざりきった果ての静寂。

その静けさが、この滝の中にあった。

 

空が淡く染まりはじめた。

霧のすき間から、ひとすじの光が差し込む。

それは滝の青をさらに冴えさせ、水面に無数の輝斑を生んだ。

光は揺れながら、まるでこの瞬間を惜しむように、森の奥へと消えていった。

 

私は滝に背を向けることができず、しばらくその場に立ち尽くした。

木々は静かに見守り、岩は声を発さず、ただ水だけが、変わらぬ速さで時を落としていた。

踏みしめる土はまだ冷たく、春の訪れを遠くに感じさせた。

 

そして私は、ゆっくりと歩き出した。

振り返らなかった。

背中に感じる青の鼓動だけを携えて、来た道を戻る。

あの滝は、誰のものでもなかった。

誰にも名を呼ばれず、ただそこに在り続ける。

それがきっと、この場所の真実なのだろう。

 

霧の森はまた静けさに包まれ、水音だけが遠ざかっていった。




あの滝がどこにあったのか、今となっては思い出せない。

ただ、霧と水と光の輪郭が、心のどこかで絶えず波打っている。
それは時間を越えて、言葉を越えて、
永遠のような一瞬を抱いていた。

旅をするほどに、私は世界の静けさに耳を澄ませるようになった。

この景色もまた、静かに私の中で生きている。
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