私は言葉を忘れていた。
霧はただ静かに漂い、
足元の葉は濡れて、冷たく柔らかかった。
青い滝という言葉は、どこか現実離れしているが、
それを見たとき、私はようやくそれが意味するものを知った。
この記憶は、旅の中でふと胸に宿り、
またいつか夢の中で私を呼ぶだろう。
水音は、まだ目覚めぬ森の眠りを破らぬよう、囁くように響いていた。
足元を滑る土は、夜の名残りをしっとりと抱きしめて、歩みを優しく受け入れる。
白く煙る息を吐きながら、私は斜面をゆるやかに登っていた。
濃い霧が林の奥に立ち込めて、木々の影を溶かしながら、幻想と現実の境を曖昧にしている。
しずくの粒が、枝から静かに滴り、落ちるたびに世界は一度だけ震える。
その音がやがて連なり、やさしい旋律となって森を満たしていた。
やがて、音が変わった。
遠くから届く低い轟きが、霧の帳をくぐり抜けて胸を打つ。
それは鼓動のようでもあり、永遠の祈りのようでもあった。
少しずつ近づくごとに、苔の匂いが水の香りへと変わり、空気が澄んでいくのがわかる。
音はすでに鼓膜ではなく、骨の奥にまで染み入っていた。
葉の先が震え、地面の小石が微かに鳴った。
そこに、それはあった。
青い滝。
まるで大地がひとすじ、空を喉元から飲み込んでしまったかのように、深く、蒼く、静かに落ちていた。
滝というよりも、世界の裂け目。
そこから流れ出すものは、ただの水ではない。
光の粒子を抱きながら、春の冷気と共にほとばしる命の記憶。
白銀に縁取られた崖のあいだから溢れ、まるで時の始まりをなぞるように、下界へと落ちてゆく。
滝壺にたどり着いた水は、砕けながら青さをさらに濃くし、辺り一帯を染め上げていた。
霧が揺れるたび、青は幾重にも姿を変えた。
夜明け前の藍、氷に閉じ込められた湖の碧、忘却の彼方の群青。
そのすべてが滝に現れ、そして消えた。
風が通り過ぎると、水面はさざ波を立て、葉の影をまといながらまた静寂に戻る。
足を進めると、苔むした岩が現れ、霧に包まれたその輪郭はどこか生き物のように見えた。
岩の裂け目には小さな雫がたまり、それがまた一筋の流れとなって、滝の青へと還っていく。
森は音を吸い込み、風を飲み込み、水の声だけを残した。
世界にひとつだけの律動。
そして、そのすべてが、どこか懐かしかった。
この場所を、知っていたような気がした。
あるいは、忘れたことがなかったのかもしれない。
幼いころに夢の中で見た景色。
記憶の奥底に閉じ込めた誰かの瞳の色。
それらが今、目の前で滝となって流れている。
蒼いというより、深い白。
白とは、すべての色が混ざりきった果ての静寂。
その静けさが、この滝の中にあった。
空が淡く染まりはじめた。
霧のすき間から、ひとすじの光が差し込む。
それは滝の青をさらに冴えさせ、水面に無数の輝斑を生んだ。
光は揺れながら、まるでこの瞬間を惜しむように、森の奥へと消えていった。
私は滝に背を向けることができず、しばらくその場に立ち尽くした。
木々は静かに見守り、岩は声を発さず、ただ水だけが、変わらぬ速さで時を落としていた。
踏みしめる土はまだ冷たく、春の訪れを遠くに感じさせた。
そして私は、ゆっくりと歩き出した。
振り返らなかった。
背中に感じる青の鼓動だけを携えて、来た道を戻る。
あの滝は、誰のものでもなかった。
誰にも名を呼ばれず、ただそこに在り続ける。
それがきっと、この場所の真実なのだろう。
霧の森はまた静けさに包まれ、水音だけが遠ざかっていった。
あの滝がどこにあったのか、今となっては思い出せない。
ただ、霧と水と光の輪郭が、心のどこかで絶えず波打っている。
それは時間を越えて、言葉を越えて、
永遠のような一瞬を抱いていた。
旅をするほどに、私は世界の静けさに耳を澄ませるようになった。
この景色もまた、静かに私の中で生きている。