風が、足音が、吐く息さえ、
白のなかに吸い込まれていく。
雪の夜は、
世界がいったん止まってしまったかのようだった。
だからこそ、
そこに残された光の粒たちは、
いっそう鮮やかに、記憶を照らすのだ。
雪は、降りはじめからすでに静かだった。
一粒が、音もなく肩に触れたとき、
それが今日の旅の終わりを告げているように思えた。
けれど、私はまだ歩いていた。
川沿いの小道を、踏み締めるように、ゆっくりと。
岸辺には、古い石の壁が並んでいた。
それは倉のようでもあり、ただの塀のようにも見える。
どれも時間の影を纏っていて、
光を反射せず、雪を静かに受け止めていた。
風は、なかった。
そのかわりに、雪がすべてを覆っていった。
水面すれすれに浮かぶ霧のように、
世界の境界を、ぼんやりとぼかしていく。
足音はすぐに消えた。
雪の厚みが増すにつれ、踏みしめる音さえも消えていく。
耳の奥に残るのは、自分の呼吸だけ。
道のわきには、鉄でできた灯りがぽつぽつと立っていた。
その灯りは強くはなかった。
炎のような揺らぎをもって、
すこしだけ空間を照らしていた。
それでも、光は十分だった。
雪はすべてを白く染め、
わずかな明かりが、世界を照らし返していた。
川の流れは、凍りきらず、まだかすかに動いていた。
水面は鏡のように張り詰め、
落ちた雪片すら、吸い込まれるように消えていった。
その水面に、灯りが映っていた。
ゆがみ、ゆらめきながら、
空の星とも見分けがつかないほどに淡く、
しかしたしかに、美しかった。
私は、立ち止まった。
背後に積もる自分の足跡は、
すでにぼんやりとしか見えなかった。
振り返る気には、なれなかった。
前にあるものだけを、
今夜だけは、見つめていたかった。
灯りは、等間隔に続いていた。
あたかも、時間のしるしのようだった。
そのひとつひとつを通り過ぎるたび、
私は何かを思い出しているような気がした。
あれは、十七番目の灯りの下だった。
一陣の風が吹いた。
雪が舞い上がり、
一瞬、視界が白に包まれた。
そのとき見えたのは、
対岸にぽつんと立つひとつの樹。
葉を落としたその枝先に、
白い鳥が止まっていた。
まるで幻のように。
まるで、誰かの記憶のなかの情景のように。
私は、しばらくその白を見ていた。
鳥も動かず、風も止み、
ふたたび、沈黙だけがあたりを満たしていった。
歩くことを再開したとき、
鳥はすでにいなかった。
枝だけが、微かに雪を蓄えていた。
その先には、小さな橋があった。
木と石でできた、
慎ましい造りの橋。
手すりには誰の足跡もなく、
そこだけが、夜のなかで眠っているようだった。
橋の中央に立つと、
風がまた吹いた。
今度はやさしい風だった。
雪が横に流れ、灯りの影を細く引いた。
川の中ほどに、
大きな氷の塊が浮かんでいた。
その氷の上に、ひとしずくの水が残り、
わずかに月を映していた。
月があったのだ。
どこにいたのか、わからなかったけれど。
雲の裂け目から、わずかに覗くその光は、
雪の白を蒼に変えた。
蒼白い風景。
そこに灯る橙の灯。
そのコントラストが、
どうしようもなく、心を満たしていく。
静寂は、孤独ではなかった。
すべてが音を失ったその世界は、
逆に、あらゆる記憶の気配を呼び起こした。
懐かしいもの。
失われたもの。
かつて名を呼んだ景色や、
二度と会わぬ気配たち。
すべてが、雪のなかで静かに息づいていた。
私は、再び歩き始めた。
雪はやまず、灯りは続いていた。
どこまでがこの小道の終わりなのか、
そのことを考えることも、もうなかった。
ただ、今夜は。
この白の世界と、灯りの粒たちとともに、
歩いていたかった。
あの夜の白は、
何も語らず、すべてを伝えていた。
音のない世界に差し出された灯りたちは、
まるで、心の奥を照らす記憶のかけらのようだった。
雪はすべてを覆いながら、
それでも、大切なものだけは
決して隠そうとはしなかった。