泡沫紀行   作:みどりのかけら

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音が消えるという現象がある。
風が、足音が、吐く息さえ、
白のなかに吸い込まれていく。

雪の夜は、
世界がいったん止まってしまったかのようだった。

だからこそ、
そこに残された光の粒たちは、
いっそう鮮やかに、記憶を照らすのだ。


0008 雪の静謐

雪は、降りはじめからすでに静かだった。

 

 

 

一粒が、音もなく肩に触れたとき、

それが今日の旅の終わりを告げているように思えた。

 

けれど、私はまだ歩いていた。

川沿いの小道を、踏み締めるように、ゆっくりと。

 

 

 

岸辺には、古い石の壁が並んでいた。

それは倉のようでもあり、ただの塀のようにも見える。

 

どれも時間の影を纏っていて、

光を反射せず、雪を静かに受け止めていた。

 

 

 

風は、なかった。

 

そのかわりに、雪がすべてを覆っていった。

水面すれすれに浮かぶ霧のように、

世界の境界を、ぼんやりとぼかしていく。

 

 

 

足音はすぐに消えた。

雪の厚みが増すにつれ、踏みしめる音さえも消えていく。

 

耳の奥に残るのは、自分の呼吸だけ。

 

 

 

道のわきには、鉄でできた灯りがぽつぽつと立っていた。

 

その灯りは強くはなかった。

炎のような揺らぎをもって、

すこしだけ空間を照らしていた。

 

 

 

それでも、光は十分だった。

雪はすべてを白く染め、

わずかな明かりが、世界を照らし返していた。

 

 

 

川の流れは、凍りきらず、まだかすかに動いていた。

水面は鏡のように張り詰め、

落ちた雪片すら、吸い込まれるように消えていった。

 

 

 

その水面に、灯りが映っていた。

 

ゆがみ、ゆらめきながら、

空の星とも見分けがつかないほどに淡く、

しかしたしかに、美しかった。

 

 

 

私は、立ち止まった。

 

背後に積もる自分の足跡は、

すでにぼんやりとしか見えなかった。

 

振り返る気には、なれなかった。

 

前にあるものだけを、

今夜だけは、見つめていたかった。

 

 

 

灯りは、等間隔に続いていた。

あたかも、時間のしるしのようだった。

 

そのひとつひとつを通り過ぎるたび、

私は何かを思い出しているような気がした。

 

 

 

あれは、十七番目の灯りの下だった。

 

一陣の風が吹いた。

 

 

 

雪が舞い上がり、

一瞬、視界が白に包まれた。

 

そのとき見えたのは、

対岸にぽつんと立つひとつの樹。

 

葉を落としたその枝先に、

白い鳥が止まっていた。

 

 

 

まるで幻のように。

まるで、誰かの記憶のなかの情景のように。

 

私は、しばらくその白を見ていた。

 

鳥も動かず、風も止み、

ふたたび、沈黙だけがあたりを満たしていった。

 

 

 

歩くことを再開したとき、

鳥はすでにいなかった。

 

枝だけが、微かに雪を蓄えていた。

 

 

 

その先には、小さな橋があった。

 

木と石でできた、

慎ましい造りの橋。

 

手すりには誰の足跡もなく、

そこだけが、夜のなかで眠っているようだった。

 

 

 

橋の中央に立つと、

風がまた吹いた。

 

今度はやさしい風だった。

雪が横に流れ、灯りの影を細く引いた。

 

 

 

川の中ほどに、

大きな氷の塊が浮かんでいた。

 

その氷の上に、ひとしずくの水が残り、

わずかに月を映していた。

 

 

 

月があったのだ。

どこにいたのか、わからなかったけれど。

 

雲の裂け目から、わずかに覗くその光は、

雪の白を蒼に変えた。

 

 

 

蒼白い風景。

そこに灯る橙の灯。

 

そのコントラストが、

どうしようもなく、心を満たしていく。

 

 

 

静寂は、孤独ではなかった。

 

すべてが音を失ったその世界は、

逆に、あらゆる記憶の気配を呼び起こした。

 

 

 

懐かしいもの。

 

失われたもの。

 

かつて名を呼んだ景色や、

二度と会わぬ気配たち。

 

 

 

すべてが、雪のなかで静かに息づいていた。

 

 

 

私は、再び歩き始めた。

 

雪はやまず、灯りは続いていた。

 

どこまでがこの小道の終わりなのか、

そのことを考えることも、もうなかった。

 

 

 

ただ、今夜は。

 

この白の世界と、灯りの粒たちとともに、

歩いていたかった。




あの夜の白は、
何も語らず、すべてを伝えていた。

音のない世界に差し出された灯りたちは、
まるで、心の奥を照らす記憶のかけらのようだった。

雪はすべてを覆いながら、
それでも、大切なものだけは
決して隠そうとはしなかった。
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