泡沫紀行   作:みどりのかけら

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朝と昼の境がほどける頃、草の先に残る冷えが足首に触れる。
空はまだ深さを測らせず、光は試すように薄く広がる。
歩みは重さを持たず、ただ地に沿って続く。
息を吸うたび、胸の内に余白が増え、吐くたび、昨日までの形が崩れる。


遠くと近くの区別は曖昧で、世界は均等な静けさに包まれている。
ここでは始まりという言葉さえ角を失い、ただ進むことだけが確かな輪郭を持つ。
足裏の感触が、これからの時間を静かに受け取っている。



853 六方に光を放つ天空の峰

草の匂いが朝の湿りをほどき、足裏に残る冷えがゆっくりと消えていく。

踏み固められていない土は柔らかく、靴底の縁で押すたびに微かな音を立てて戻る。

息はまだ浅く、胸の内に薄い霧のようなものが漂っている。

芽吹きの名残が風に揺れ、初夏の光は角を持たないまま降り注ぐ。

 

 

歩くほどに、視界は高くひらけていく。

左右から寄り添っていた緑は少しずつ退き、足元の線が細くなって、前方に静かな余白が生まれる。

雲は白い層を重ね、流れを忘れたように留まり、光は六つの方向へと分かれて散る。

上から、下から、背後から、そしてまだ名のない方角から、等しく触れてくる。

皮膚の表面が薄くなる感覚があり、風の指が首筋に線を引く。

 

 

立ち止まると、遠くの稜線が淡く重なり合い、輪郭は溶けては結び直される。

色は数えきれないが、どれも主張を控え、沈黙のうちに在る。

汗が背を伝い、乾くまでの短い時間に、身体がここに置かれている確かさが滲む。

喉に残る渇きは、ただの欠落ではなく、周囲の広がりを飲み込めない器の限界を知らせる。

 

 

道の端で、小さな石が光を含んでいる。

手に取ると冷たく、角は長い時間をかけて丸められている。

握るほどに、石は石であることをやめない。

指先の皮膚はそれを受け入れ、微かな痛みが目を覚ます。

ここでは、触れることが考えることより先にある。

 

 

歩みを再び刻む。足首に絡む草は、引き留めるというより、通過の証を残そうとする。

視線を上げると、空は広さを誇らず、ただ在る。

光は均等に満ち、陰は逃げ場を失って淡くなる。

胸の奥で、何かが静かに整列する気配があるが、名を与えるほど強くはない。

 

 

やがて、風の通り道に立つ。

ここでは音が遠く、心拍の規則が際立つ。

耳の奥で、血の流れが波打ち、時間は伸び縮みを忘れる。

見渡すかぎり、起伏は呼吸のように連なり、どこから見ても中心がない。

中心がないという事実が、重さを持って肩から降りる。

 

 

膝を伸ばし、背を起こす。

汗が冷え、肌に薄い膜を作る。

光は相変わらず六方に分かれ、均衡を崩さない。

遠くの色がわずかに濃くなり、近くの影がほどける。

足元の土は、さきほどより乾いている。

歩いてきた痕はすでに曖昧で、戻る方向も、進む方向も、同じ静けさを帯びている。

 

 

この高さで、初夏は声を潜める。

緑は若く、疲れを知らない。胸の霧は薄れ、代わりに透明な重さが宿る。

目を閉じると、光の分岐が内側にも広がり、六つの方角が一つに重なる。

開くと、世界は変わらず、変わらないことがわずかな慰めになる。

 

 

風は一定の強さを保ち、強まることも弱まることもなく、ただ通り過ぎる。

立っている間にも、時間は歩幅を持たずに進み、影の位置だけがわずかにずれる。

足の裏に伝わる地の温度は、朝とは違い、体温に近づいている。

身体はこの場所に馴染み始め、緊張は解け、代わりに静かな集中が残る。

 

 

遠くの稜は、重なりの奥で淡く揺らぎ、まるで水面に映る景色のように確かさを拒む。

近くの草は、一本一本がはっきりと存在し、葉の縁に溜まった光が瞬く。

触れれば切れるほどの若さがあり、しかし折れずにしなる強さもある。

指先に残る青い匂いが、胸の奥まで届く。

 

 

歩き出すと、下りはじめる感覚が膝に伝わる。

重心が前へと促され、慎重さが必要になる。

小石が転がり、乾いた音が足元で跳ねる。

斜面は広く、迷う余地はないが、選び取る一歩ごとに、身体の内側で何かが調整される。

速すぎず、遅すぎず、呼吸に合わせる。

 

 

光は次第に角度を変え、六方の均衡はわずかに崩れる。

それでも完全には失われず、どこかに残り続ける。

背中に当たる温もりが増し、額に汗が滲む。

喉の渇きは再び現れ、今度は受け入れられる。

渇きは進む証であり、止まらない理由でもある。

 

 

途中、地面が広がり、足を休める場所が現れる。

腰を下ろすと、骨に直接、地の硬さが伝わる。

視線を低くすると、苔の粒が無数の島のように連なり、その間を小さな影が移動する。

世界は縮まり、同時に深くなる。

息を吸うたびに、胸の内側で空間が広がり、吐くたびに静まる。

 

 

ここで、何かを思い出しそうになるが、形になる前に消える。

必要なのは記憶ではなく、今の感触だけだと、身体が知っている。

耳を澄ますと、遠くで風が別の道を通る音が重なり、重層的な静けさが生まれる。

静けさは空白ではなく、満ちた状態だと理解する。

 

 

再び立ち上がる。

脚に残る軽い痺れが、動き出す合図になる。

進むにつれ、先ほどの高さは背後に溶け、見えなくなる。

振り返らなくても、その広がりは内側に残っている。

光は前方からも背後からも届き、六方の名残が、均等ではないまま続く。

 

 

初夏の時間は、急がず、引き延ばさず、歩調に従う。

草の匂いは次第に甘さを増し、土は乾き、靴底の感触が軽くなる。

身体は少しだけ疲れ、その疲れが心地よい重みになる。

終わりを意識するには早く、始まりを振り返るには遅い、その間に身を置く。

 

 

やがて、風の質が変わり、冷えが混じる。

光は柔らかさを保ったまま、低くなる。

六方に分かれていたものは、静かに溶け合い、一つの広がりとして胸に収まる。

歩みは続き、道は続き、変わらないものと変わったものが、区別なく重なっていく。

足音だけが確かで、それ以外はすべて、静かな余韻として残る。

 




光が低くなり、影が長さを思い出す頃、身体は一日の重みを素直に抱える。
草は昼の色を手放し、土は熱を奥へ戻す。
歩いてきた距離は数えられず、代わりに胸の内に沈殿する静けさがある。


振り返らなくても、広がりは消えない。
六方に散っていた光は、ひとつの温度として残り、呼吸の底で脈打つ。
足音がゆっくりと地に溶け、世界は変わらぬ顔で受け入れる。
終わりは閉じず、ただ次の歩みに静かに譲られる。
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