泡沫紀行   作:みどりのかけら

882 / 1177
春の始まりは、いつも足元から忍び寄る。
乾いた冬の名残がほどけ、土は静かに湿りを取り戻す。
踏みしめるごとに、見えない脈が伝わり、身体はそれを言葉より早く理解する。
歩く理由は定かではない。
ただ、留まることができないという感覚だけが、背中をそっと押していた。
空は淡く、光は輪郭を持たずに広がり、遠くと近くの境を曖昧にする。
視線は自然と揺れ、確かさよりも揺らぎを選び取るようになる。


やがて、道とも呼べぬ連なりが、静かな違和を含み始める。
見慣れたはずの景色が、どこか裏返り、平面と奥行きが入れ替わる。
その兆しに名はなく、不安もない。
春が持つ錯覚のような優しさが、すべてを包み、歩みを止める理由を溶かしていく。
まだ見ぬものは、すでに内側に芽吹いており、それに気づかぬまま、足は前へ運ばれていく。



882 錯覚に揺れる夢幻の館

春の匂いが足元から立ち上がり、薄い土の湿りが靴底に残る。

歩くたび、地面は柔らかな呼吸を返し、芽吹ききれない草の影が揺れた。

遠くの稜線は霞み、空は高く、淡い光がすべての輪郭を溶かしていた。

歩き続けるうち、道はいつの間にか自らを失い、ただ進むという行為だけが残った。

 

 

やがて、森と森の隙間に、奇妙な沈黙が立ち上がる。

壁のようでいて壁ではない、奥行きのない影が折り重なり、視線を拒むように佇む館があった。

春の蔦が這い、白く乾いた壁面には、風景とも裂け目ともつかぬ模様が刻まれている。

それらは描かれているのか、彫られているのか判然とせず、近づくほどに遠ざかる。

足を踏み出すたび、距離の感覚がずれ、身体の重さだけが確かなものとして残った。

 

 

入口と見える部分に手を伸ばすと、指先は空を掴む。

描かれた影の奥に、さらに影が続き、平面が深淵のように口を開ける。

目は欺かれ、足は慎重さを失う。

踏み込んだ床は傾いているはずなのに水平で、水平であるはずの線は崩れ落ちる。

呼吸が一拍遅れ、胸の内に微かなざわめきが宿った。

 

 

館の内側は春の光を拒まず、薄い明るさが満ちている。

壁には窓が描かれ、窓の向こうにはさらに館が続く。

階は重なり、階段は昇るほどに低くなり、低くなるほどに高みを示す。

足裏に伝わる冷えは確かで、石の粒子が肌に触れる感触が現実を引き戻すが、視線は何度も裏切られる。

触れられるはずの柱は遠く、遠いはずの床は目前に迫る。

 

 

進むにつれ、季節の気配が歪む。

春の若葉が壁に描かれ、その影が揺れ、揺れの源が見当たらない。

風は感じるが、音は伴わない。耳に届くのは、自身の歩みが生む微かな摩擦だけだ。

時間もまた伸び縮みし、一息が長く、数歩が短い。

記憶の縁が薄れ、今ここにある感覚だけが、静かに厚みを増していく。

 

 

床に描かれた裂け目を跨ぐと、深く落ちる予感が足首を掴む。

しかし何も起こらない。起こらなさが、最も強い作用として残る。

身体は無事で、心だけが一瞬遅れて追いつく。

その遅れが、春の柔らかさと相まって、奇妙な安堵をもたらした。

 

 

壁際に描かれた扉の前で立ち止まる。

木目は精緻で、古い手触りを思わせる陰影がある。

触れれば冷たいはずだと予想しながら、指先はまた空を切る。

触れられないという事実が、触れた感触のように残り、掌に重さを与えた。

進むことも戻ることも同じ意味を持ち、歩くという選択だけが静かに続く。

 

 

館は眠っているのか、目覚めきれないのか。答えはどこにも示されない。

春の光が少しずつ傾き、描かれた影が伸びる。

その伸びは実際の影よりも確かで、身体の内側にまで入り込む。

足取りは軽く、同時に重い。

錯覚の層を踏みしめながら、まだ見えない奥へと、歩みは自然に運ばれていく。

 

 

描かれた影が折れ曲がる角を越えると、空間は急に狭まり、肩幅ほどの通路が現れた。

壁は近く、しかし圧迫はなく、視線だけが窮屈さを訴える。

通路の奥には明るさが溜まり、白い面が揺らめいている。

歩みを進めるたび、距離は縮むはずなのに、光は一定のまま留まり続ける。

足音が吸い込まれ、床に残るはずの反響は生まれない。

 

 

通路の途中、描かれた水面が広がっていた。

青は深く、しかし厚みはなく、覗き込むと底知れぬ落下の錯覚が胸を掠める。

身を屈め、指先を伸ばすと、冷たさはない。

それでも、水に触れた記憶だけが確かに蘇り、皮膚の奥がひやりとする。

歩き続ける身体と、留まりたがる感覚が、静かに引き合っていた。

 

 

やがて通路は開け、天井の高い広間へと導かれる。

そこでは春が、いくつもの層となって重なっていた。

若い枝、花弁、淡い光、それらすべてが壁や床に描かれ、重なり合いながら一つの季節を形作る。

だがどこかでずれ、重なり切らない。

そのずれが、呼吸に似たリズムを生み、空間を満たしている。

 

 

広間の中央には、塔の断面のようなものが描かれていた。

円を成し、内側へと続く階が示されている。

しかし近づくほど、その階は平面へと溶け、円はただの影へと還る。

見上げれば高みを示し、見下ろせば深みを誘う。

どちらも踏み込めず、ただ立ち尽くす間、足裏の感覚だけが現実を主張した。

 

 

ここで、微かな疲労が身体を包む。

長く歩いたわけではない。それでも、視線を使い続けた重みが、肩から背へと降り積もる。

腰を下ろしたい衝動が湧くが、座るべき場所は描かれているだけで、実在しない。

立ったまま、呼吸を整えると、春の匂いが再び立ち上がった。

館の内にありながら、外の季節が確かに入り込んでいる。

 

 

広間を抜けると、緩やかな下りが続く。

下っているはずなのに、足は軽く、むしろ浮遊に近い。

壁に描かれた景色は次第に抽象を増し、線と影だけが残る。

何を示しているのか分からないが、不安はない。

分からなさそのものが、静かな安らぎとなって胸に収まる。

 

 

最後に現れた空間は、ほとんど何も描かれていなかった。

淡い色の面が広がり、角も境も曖昧だ。

そこに立つと、これまでの錯覚が一斉に引いていく。

遠近も上下も、ただの感覚として薄まる。

代わりに、歩いてきたという事実だけが、足の裏に残る。

 

 

振り返っても、来た道は見えない。

進んでも、明確な出口は示されない。

それでも、春の光は均等に満ち、身体は自然に前へと傾く。

目覚めきれぬ幻の塔は、内側に響きを溜めたまま、静かに佇んでいる。

その響きは音ではなく、記憶でもなく、歩き続けるという行為そのものとして、深く胸に残り続けた。

 




歩みが尽きるという感覚は訪れない。
ただ、重なっていた層が一枚ずつ薄れ、残るものが静かに定まっていく。
錯覚は消えたのではなく、身体の奥に沈み、言葉にならぬ重みとして留まる。
春の光は相変わらず淡く、どこにも出口を示さない。
それでも、足裏に残る確かな感触が、ここまで歩いてきた事実を支えている。


振り返らずとも、何かが背後に静かに佇んでいる気配がある。
それは形を持たず、音も立てない。
ただ、歩くという行為に溶け込み、これからも離れずに続いていく。
錯覚に揺れた館も、目覚めぬ塔も、すでに風景ではない。
春の中を歩くたび、ふとした瞬間に蘇る、深い余韻として、内側で静かに息づいている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。