泡沫紀行   作:みどりのかけら

9 / 1177
霧をまとった朝の空気は、
どこかべつの世界へ通じる入口のようだった。

足元に続く道は、しだいに雲へと溶けていき、
私は歩きながら、
自分がまだ地にいるのか、それとも空を踏んでいるのか、
確かめることすらできなくなっていた。




0009 雲を越える道

峠の入り口には、風が立っていた。

 

朝早く、空はまだ眠っているようだったが、

雲だけが先に目を覚まし、

山の斜面を流れるように漂っていた。

 

 

 

私はその霧のなかへ、

まるで水に入るように足を踏み入れた。

 

草を濡らす雫が靴の先から沁み込み、

空気が肺の奥まで冷たさを届けてきた。

 

 

 

進むたびに、景色は淡くぼやけていった。

 

木々の枝先はすでに葉を落とし、

その代わりに薄く白い光が宿っていた。

 

 

 

空はまだ見えなかった。

けれど、上を目指しているという確信だけがあった。

 

道はゆるやかに登っていく。

振り返れば、下界はすでに霧に沈み、

見えるのは、自分の足跡だけ。

 

 

 

やがて、木々が途切れ、

風の音が強くなる。

 

それは声ではないのに、

何かを語ろうとしているようだった。

 

 

 

風を越えた先に、世界が開けた。

 

 

 

視界の先には、何もなかった。

 

 

 

ただ、雲。

 

雲が大地のように広がっていた。

 

 

 

私はその縁に立ち、

しばらく足を止めた。

 

高く、静かで、冷たい。

そして、やさしかった。

 

 

 

雲は白く、厚みを持ち、

地表のように広がっていた。

 

ところどころに突き出した岩の峰が、

まるで孤島のように雲海から頭を出している。

 

 

 

そこには、時間がなかった。

 

雲の流れはとてもゆるやかで、

まるで静止しているようだった。

 

 

 

私は再び歩きはじめた。

 

道は、雲の縁をなぞるように続いていた。

 

右手には絶えず雲が寄り添い、

左手には、山肌が静かに傾いていた。

 

 

 

道端には、名も知らぬ草花が揺れていた。

 

どれも小さく、慎ましい花たちだったが、

そのひとつひとつが確かに光を宿していた。

 

 

 

ときおり、雲の切れ間から陽が射した。

その瞬間、道全体が金に染まり、

風の粒子が光のなかを舞った。

 

 

 

私は、その光景をただ見つめていた。

 

言葉を差し挟む余地はなかった。

 

 

 

足元の石がころりと転がる音さえ、

風と陽に紛れて消えていった。

 

 

 

しばらく歩くと、雲が少し低くなり、

道は雲の上に浮かぶようになった。

 

 

 

私は、空を歩いていた。

 

 

 

雲の上には、

もう風の音もなかった。

 

ただ自分の呼吸と、

草を揺らすかすかな音だけ。

 

 

 

その音が、旅のすべてだった。

 

 

 

見渡せば、どこまでも雲。

 

彼方に連なる山並みが、

薄く紫がかって浮かんでいる。

 

それ以外には、何もなかった。

 

 

 

何もないということが、

これほどまでに豊かだということを、

私はこのとき初めて知った。

 

 

 

雲が照り返す光がまぶしくて、

思わず目を細める。

 

そのとき、ふと、

雲が一筋だけ道の上にこぼれ落ちてきた。

 

 

 

まるで、誰かの手が伸びてきたようだった。

 

 

 

私はその白をすり抜けて歩き、

ふたたび明るい場所へと出た。

 

その先には、また静かな尾根が続いていた。

 

 

 

もう目的地という概念はなかった。

 

終わりがどこにあるのかも知らないまま、

私は、ただ歩き続けていた。

 

 

 

空に溶ける道を。

 

雲とともにある時間を。

 

 

 

それは永遠ではなかったけれど、

この世に確かに存在したひとときだった。

 

 

 

雲がしだいに厚くなり、

ふたたび私の周囲を包みこんだ。

 

視界は薄れてゆく。

 

道も、空も、すべてが白に溶けていく。

 

 

 

それでも、私は歩き続けた。

 

足元に、たしかな大地を感じながら。

心の奥に、まだ漂う光のかけらを灯しながら。

 

 

 

あの雲を越えた場所で見た風景を、

決して手放さぬように。




雲の上を歩いた記憶は、
それが夢か現実かすら曖昧なまま、
胸の奥に澄んだまま残り続けている。

目にした風景ではなく、
身体の感覚として刻まれた静けさと光。

それは、遠く離れた今でも、
心がささやかに揺れるたびに、
ふと立ちのぼってくる──
雲を越えた場所の、静かな余韻。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。