泡沫紀行   作:みどりのかけら

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歩くたびに、世界の声が変わる気がする。
風のささやき、草の吐息、空の奥でかすかに揺れる光。
それらが音にならずに届く場所が、ほんとうに存在していた。

私はただ、靴の底から伝わる湿り気と、心の奥で響く鼓動に導かれて、そこへ向かった。
その稜線には、誰のものでもない静けさがあり、時を越えた花々の記憶があった。

名も告げず、姿も変えず、ただそこに咲きつづけていたものたちを、私は見た。


0090 風語りの稜線

遠くに低く霞んだ尾根が、まるで夢の終わりをそっと包むようにたたずんでいた。

その白みがかった輪郭に、目を細める。

空はまだ朝の名残を帯びており、夜の色を脱ぎきれずにいる。

歩みの先に広がる光景は、ひとの記憶など及びもしない、無言の時間だった。

 

草の匂いが、かすかに甘く鼻先をくすぐる。

湿った土と、遠くに咲く小さな花々の静かな息遣い。

足元に咲いた白い花が、冷たい風にふるえている。

どの名を持つのか知らぬその花は、まるで古い約束を思い出そうとしているかのようだった。

 

稜線は長く、なだらかに、しかしどこまでも続いている。

風がそこを流れてゆくたび、花々がひとつひとつ、まるで語り合うようにそよぐ。

紫、黄、朱、そして無垢の白。

無数の色が、ひとつも喧嘩をせずに並んでいた。

 

その調和には、名もなき世界の理があるようだった。

誰が植えたのでもなく、誰が手入れをしたのでもない。

ただ、永い時が、そこに咲くべき姿を選んだ。

 

風は言葉を持たない。

けれど、ここでは確かに語っていた。

尾根をなぞるように吹きすぎ、岩の影をくすぐり、葉の裏に秘密を滑り込ませる。

草と風とが交わす沈黙は、時に深い祈りのようでもあった。

 

一歩、また一歩。

登るほどに、背後の世界が小さくなる。

過去のすべてが、音を立てずに遠ざかってゆく。

まるで、許しのように。

 

やがて、広い空が姿をあらわす。

雲の影が山肌をゆっくりと横切っていく。

その動きは、時計の針よりも遅く、だが確かだった。

その影の下で、花々が小さな身をゆらす。

 

地に伏すように咲く者もいれば、すっと背をのばす者もいる。

儚く見えて、強い。

それぞれが、その場に最もふさわしい形で在ろうとしていた。

誰にも見られなくとも、誰にも知られなくとも。

 

岩の間に、ひとつだけ紅が咲いていた。

他のどれとも違う、燃えるような深紅。

風に吹かれても、倒れない。

まるでこの場所の記憶そのもののように、そこにあった。

 

見上げれば、空が近い。

息をするたびに、肺の奥まで冷たさが沁み込む。

けれど、その冷たさが苦ではなかった。

むしろ、ひとの熱をやさしく鎮めるようだった。

 

高くそびえる影の向こう、尾根はまだ続いている。

踏みならされた道ではない。

獣も、鳥も、ここにはほとんどいない。

ただ風と草花と岩だけが、終わりのない静寂を編んでいた。

 

眼下に広がる谷には、光が満ちていた。

それは眩しさではなく、やさしい滲みだった。

霧が、光を吸って、やがて空へ還していく。

空気に混じる冷たさの中に、どこか甘やかな香りがあった。

 

それは、この場所が過去からずっと咲き続けていることの証だった。

誰のためでもなく、ただ「在る」ということだけで、世界を満たしていた。

その強さが、静かだった。

その美しさが、声を持たなかった。

 

風はまだ、稜線を渡っていた。

花々はまだ、その言葉に耳を傾けていた。

ひともまた、そこにひととき身を置くだけで、言葉を忘れてゆく。

永遠を抱く白の記憶は、そんな風にして続いていた。




風は、何も語らなかった。
それでも、確かに伝えていた。
この稜線で、どれほどの春が巡り、どれほどの夜が越えていったのかを。
そのすべてを抱くように、花々は今日も揺れていた。

音のない会話のなかで、私はひとときだけ、世界の深部に触れた気がした。
歩く旅は、思い出を背負うのではなく、忘れてゆくことなのかもしれない。
名もなき風の中に、ふと立ち止まり、目を閉じたその瞬間こそが、永遠だった。
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