泡沫紀行   作:みどりのかけら

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足元に積もる雪は、過去を静かに覆い隠す。
誰のものでもない風が吹き抜け、声なきものたちが、声なきままに存在している。
歩くたび、世界は音を失い、心の奥にだけ、確かな響きを残してゆく。

この旅で出会ったのは、冬という名の記憶だった。
色を失った風景のなかに、確かにあった命の調べ。
それは白く、冷たく、どこまでも優しかった。


0091 静雪の調べ

白は、音のない時間のなかで生きていた。

風は足跡すら拒むほどに冷たく、空から落ちるものはすべて、重力を忘れたかのようにゆるやかに降りる。

わたしは歩いていた。

ただ、歩いていた。

 

草は息を潜め、木々は氷の記憶をその枝に宿し、すべてが眠りの中で夢を見ているようだった。

土の柔らかさも、葉のささやきも、この季節には姿を消す。

代わりに、白だけが世界を支配していた。

 

その白の向こうに、それはあった。

ひっそりと凍てつく湖。

生の気配など感じさせぬほど、静かに、慎ましく、そこにあった。

 

湖は鏡のように凍り、空と雪の境界を曖昧にしていた。

風が吹くと、氷の表に細やかな波紋のような影が走り、まるで過去の記憶が目覚めようとしているようだった。

わたしは氷の縁に立ち、深く息を吸った。

吐息はすぐに白い霧となり、消えた。

 

すると、どこからか声がした。

ひとつの、清らかな、泣くような音色。

ついで、またひとつ。

 

それは風ではなかった。

木の軋む音でも、雪の鳴く声でもない。

もっと柔らかく、もっと深く、心の底に沈みゆく響きだった。

 

白鳥たちだった。

 

湖の上に、静かに、白い影が現れていた。

風に抗わず、ただ舞い、ただ漂い、何も求めず、何も拒まずに。

 

彼らは歩くように滑り、翼を広げてはゆるやかに閉じ、誰にも届かぬ言葉を空に放っていた。

その姿は、夢が目覚める直前のまどろみに似ていた。

時間が止まることを許されたものだけが知る、ひとときの永遠。

 

あるものは首を水面に垂らし、あるものは目を閉じていた。

氷に足を沈めるその静けさは、世界が自分を忘れてくれることへの感謝のようだった。

彼らは、誰かに見られるためにここにいるのではなかった。

 

白鳥たちの群れは、まるで湖の記憶そのものだった。

季節が巡るたびに蘇る、冬の深奥の断片。

彼らの羽根に降る雪は、まるで彼らの内にある物語の続きを綴っているかのようだった。

 

わたしは、息を止めた。

その光景を少しでも長く抱きしめるために。

動けば消えてしまう気がした。

音を立てれば、夢から醒めてしまう気がした。

 

けれど、雪は止まなかった。

風は、白鳥たちの声をゆっくりと運び、遠くへ、遠くへと解き放っていった。

 

まるで、何か大切なことを思い出させようとするように。

あるいは、忘れることさえ美しいと告げるように。

 

わたしは再び歩き出した。

 

振り返れば、白の世界はそのままだった。

白鳥たちはまだ、静かに佇んでいた。

それは、音楽の終わったあとに残る余韻のようで。

夜が明ける寸前の、静かな予感のようでもあった。

 

遠ざかるほどに、その景色は心に染み入り、

やがて、それはわたしの中でひとつの旋律となった。

 

名もなく、時も持たず、ただ、白のなかで奏でられる調べ。

 

永遠は、きっとあそこにあったのだ。

記憶の底、雪の羽音、凍った湖のやさしさのなかに。




思い出すたびに、あの景色は音もなく心を満たす。
白鳥たちの影、凍てついた湖面、そこに落ちた一滴の光。
言葉にならない感情が、ひたひたと胸の奥に寄せてくる。

旅とは、何かを探すものではなく、何かを静かに受け取る行為なのかもしれない。
足跡は雪に消えても、あの白の調べは、永遠に耳の奥で揺れている。
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