泡沫紀行   作:みどりのかけら

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朝の光はまだ淡く、草の先だけを静かに照らしていた。
夜露を含んだ土は柔らかく、足裏にひやりと沈む。
歩き出すたび、細い草葉が衣の裾を撫でて離れる。
遠い高まりの輪郭が、薄い空の奥でゆるく浮かんでいた。


風はまだ弱く、野の面を静かに撫でるだけだった。
その静けさの中で、乾ききらぬ土の匂いが深く立つ。
私はその匂いを胸いっぱいに受け、歩みを重ねた。
草の露が指先に触れ、冷たい粒が静かに弾ける。


歩くほどに光は広がり、斜面の色がゆっくりほどけてゆく。
足元の小石がときどき転がり、乾いた響きを残した。
私はその音を背に残しながら、まだ遠い頂を見上げた。
その高さは、朝の空に溶けて静かに待っていた。


914 黄金の風が駆ける大地の王座

薄く乾いた風が、草の穂をかすかに鳴らしていた。

足裏に触れる土は、昼の温もりをまだ抱いている。

私はそのぬくもりを踏み分け、ゆるい斜面を上ってゆく。

 

 

傾いた光が、低い野の面を黄金にほどいていた。

背丈ほどの草が揺れるたび、柔らかな擦過音が流れる。

指先で穂を払うと、粉のような花屑が掌に残る。

それは微かな甘みを帯び、秋の気配を舌に滲ませた。

 

 

遠くの空は高く澄み、淡い雲がゆるやかに溶けている。

肩をかすめる風が、衣の布をさらりと裏返す。

 

 

歩みの先で、枯れ葉がひとつ静かに裏返った。

裏面の鈍い朱が、斜めの光にふっと浮かび上がる。

踏めば薄く砕け、乾いた匂いが足元から立つ。

その匂いは胸の奥で淡く広がり、長い余韻を残す。

私はしばらくその香りの中で、足取りを緩めていた。

 

 

坂の途中で、細い石に足先が触れた。

 

 

石は昼の熱を蓄え、掌にやさしい重みを残す。

表面のざらつきが、皮膚をゆっくり擦ってゆく。

私はそれを道端へ戻し、また静かな斜面へ向かう。

その仕草の後で、胸の内の空白が少し澄んだ。

 

 

風は次第に広がり、草原の面を波のように渡る。

その波が膝を撫で、衣の裾を軽く持ち上げる。

私は揺れる光の中で、歩幅をゆるく整えた。

 

 

斜面の上には、丸みを帯びた高まりが静かに伏す。

そこへ至る道は細く、柔らかな土が続くばかり。

足を踏み出すたび、乾いた粒が靴底でかすかに鳴る。

風の向きが変わり、草の匂いが濃く寄ってくる。

胸の奥で、遠い記憶の影がゆっくり揺れた。

 

 

掌に触れた草の葉は、意外なほど冷えていた。

その冷たさが指を伝い、腕の奥へ細く流れ込む。

 

 

私はその感触を確かめながら、ゆるやかな頂へ歩む。

黄金の草は背を伏せ、風の通り道を開いている。

沈む光が大地の起伏をなぞり、静かな陰影を深めていた。

 

 

頂へ近づくにつれ、草の背は少し低くなった。

足元の土は乾ききり、踏むたびに柔らかな音を立てる。

空の色は深まり、光は長い刃のように斜めへ伸びていた。

その光の縁で、細かな塵が静かに漂っている。

 

 

私は手近な石に腰を下ろし、息を整えた。

石の面は冷えはじめ、衣越しに静かな硬さを伝える。

掌を置くと、ざらついた粒が皮膚を細かく押した。

 

 

遠くから渡る風が、草を幾度も撫でてゆく。

そのたび黄金の面がゆるやかに折れ返る。

波は広がり、やがて静かな平面へ戻ってゆく。

私はその往復のリズムに、足の疲れを溶かしていた。

 

 

衣の袖に、細い種がいくつも絡みついていた。

指で払うと、乾いた軽い音がかすかに散る。

その小さな重みが、長い歩みの証のように残る。

私は袖口を軽く叩き、また立ち上がった。

肩のあたりに、冷たい風がすっと差し込む。

 

 

斜めの光はさらに深まり、草の先端を燃やす。

触れれば柔らかなはずの穂が、目には鋭く輝く。

 

 

私はゆっくりと歩き出し、頂の静かな面を横切る。

足の裏へ、硬い根がときどき押し返してくる。

その感触が、地の深い眠りを伝えてくるようだった。

胸の奥で、言葉にならない静けさが広がる。

 

 

やがて風が止まり、草は一斉に立ち上がった。

黄金の広がりが、波を失って静止する。

その静止の中で、夕の匂いが濃く漂いはじめる。

 

 

私は掌で草を軽く押し分け、身を低くした。

葉の縁が頬に触れ、ひやりとした感触を残す。

地面の近くでは、土の匂いが深く沈んでいる。

その湿りが、遠い時間の底から滲むように感じられた。

私はしばらく動かず、その匂いを胸に受けていた。

 

 

やがて空の端で、光がゆるやかに傾いた。

草の影は長く重なり、大地を静かに覆い始める。

風は再び戻り、低い唸りを草の間に残した。

私はその流れに身を預け、ゆっくり歩みを下ろしてゆく。

 




斜面を下りきるころ、光はすでに薄くなっていた。
足元の草は冷え、触れるたびに小さく身を縮める。
乾いた葉が靴の下で砕け、柔らかな匂いが立った。
その匂いはゆるやかに広がり、夕の空気に溶けていく。


風は高まりの方から静かに流れてくる。
背後の草原が、遠い波のようにかすかに鳴る。
私は振り返らず、その音だけを耳に残した。


暮れの空は淡く澄み、わずかな光が野を包む。
掌に触れた草の冷たさが、歩みの終わりを静かに伝える。
私はその感触を確かめながら、ゆるやかに歩き続けた。
やがて足音だけが残り、草の海へ静かに溶けていった。
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