夜露を含んだ土は柔らかく、足裏にひやりと沈む。
歩き出すたび、細い草葉が衣の裾を撫でて離れる。
遠い高まりの輪郭が、薄い空の奥でゆるく浮かんでいた。
風はまだ弱く、野の面を静かに撫でるだけだった。
その静けさの中で、乾ききらぬ土の匂いが深く立つ。
私はその匂いを胸いっぱいに受け、歩みを重ねた。
草の露が指先に触れ、冷たい粒が静かに弾ける。
歩くほどに光は広がり、斜面の色がゆっくりほどけてゆく。
足元の小石がときどき転がり、乾いた響きを残した。
私はその音を背に残しながら、まだ遠い頂を見上げた。
その高さは、朝の空に溶けて静かに待っていた。
薄く乾いた風が、草の穂をかすかに鳴らしていた。
足裏に触れる土は、昼の温もりをまだ抱いている。
私はそのぬくもりを踏み分け、ゆるい斜面を上ってゆく。
傾いた光が、低い野の面を黄金にほどいていた。
背丈ほどの草が揺れるたび、柔らかな擦過音が流れる。
指先で穂を払うと、粉のような花屑が掌に残る。
それは微かな甘みを帯び、秋の気配を舌に滲ませた。
遠くの空は高く澄み、淡い雲がゆるやかに溶けている。
肩をかすめる風が、衣の布をさらりと裏返す。
歩みの先で、枯れ葉がひとつ静かに裏返った。
裏面の鈍い朱が、斜めの光にふっと浮かび上がる。
踏めば薄く砕け、乾いた匂いが足元から立つ。
その匂いは胸の奥で淡く広がり、長い余韻を残す。
私はしばらくその香りの中で、足取りを緩めていた。
坂の途中で、細い石に足先が触れた。
石は昼の熱を蓄え、掌にやさしい重みを残す。
表面のざらつきが、皮膚をゆっくり擦ってゆく。
私はそれを道端へ戻し、また静かな斜面へ向かう。
その仕草の後で、胸の内の空白が少し澄んだ。
風は次第に広がり、草原の面を波のように渡る。
その波が膝を撫で、衣の裾を軽く持ち上げる。
私は揺れる光の中で、歩幅をゆるく整えた。
斜面の上には、丸みを帯びた高まりが静かに伏す。
そこへ至る道は細く、柔らかな土が続くばかり。
足を踏み出すたび、乾いた粒が靴底でかすかに鳴る。
風の向きが変わり、草の匂いが濃く寄ってくる。
胸の奥で、遠い記憶の影がゆっくり揺れた。
掌に触れた草の葉は、意外なほど冷えていた。
その冷たさが指を伝い、腕の奥へ細く流れ込む。
私はその感触を確かめながら、ゆるやかな頂へ歩む。
黄金の草は背を伏せ、風の通り道を開いている。
沈む光が大地の起伏をなぞり、静かな陰影を深めていた。
頂へ近づくにつれ、草の背は少し低くなった。
足元の土は乾ききり、踏むたびに柔らかな音を立てる。
空の色は深まり、光は長い刃のように斜めへ伸びていた。
その光の縁で、細かな塵が静かに漂っている。
私は手近な石に腰を下ろし、息を整えた。
石の面は冷えはじめ、衣越しに静かな硬さを伝える。
掌を置くと、ざらついた粒が皮膚を細かく押した。
遠くから渡る風が、草を幾度も撫でてゆく。
そのたび黄金の面がゆるやかに折れ返る。
波は広がり、やがて静かな平面へ戻ってゆく。
私はその往復のリズムに、足の疲れを溶かしていた。
衣の袖に、細い種がいくつも絡みついていた。
指で払うと、乾いた軽い音がかすかに散る。
その小さな重みが、長い歩みの証のように残る。
私は袖口を軽く叩き、また立ち上がった。
肩のあたりに、冷たい風がすっと差し込む。
斜めの光はさらに深まり、草の先端を燃やす。
触れれば柔らかなはずの穂が、目には鋭く輝く。
私はゆっくりと歩き出し、頂の静かな面を横切る。
足の裏へ、硬い根がときどき押し返してくる。
その感触が、地の深い眠りを伝えてくるようだった。
胸の奥で、言葉にならない静けさが広がる。
やがて風が止まり、草は一斉に立ち上がった。
黄金の広がりが、波を失って静止する。
その静止の中で、夕の匂いが濃く漂いはじめる。
私は掌で草を軽く押し分け、身を低くした。
葉の縁が頬に触れ、ひやりとした感触を残す。
地面の近くでは、土の匂いが深く沈んでいる。
その湿りが、遠い時間の底から滲むように感じられた。
私はしばらく動かず、その匂いを胸に受けていた。
やがて空の端で、光がゆるやかに傾いた。
草の影は長く重なり、大地を静かに覆い始める。
風は再び戻り、低い唸りを草の間に残した。
私はその流れに身を預け、ゆっくり歩みを下ろしてゆく。
斜面を下りきるころ、光はすでに薄くなっていた。
足元の草は冷え、触れるたびに小さく身を縮める。
乾いた葉が靴の下で砕け、柔らかな匂いが立った。
その匂いはゆるやかに広がり、夕の空気に溶けていく。
風は高まりの方から静かに流れてくる。
背後の草原が、遠い波のようにかすかに鳴る。
私は振り返らず、その音だけを耳に残した。
暮れの空は淡く澄み、わずかな光が野を包む。
掌に触れた草の冷たさが、歩みの終わりを静かに伝える。
私はその感触を確かめながら、ゆるやかに歩き続けた。
やがて足音だけが残り、草の海へ静かに溶けていった。