(まずい……)
心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。エレベーターは最悪の戦場だった。三方を鉄壁に囲まれ、頭上はわずか180センチの天井。幸い、俺以外には目の前にいるグロンギだけ。
だが、正面には黒光りする筋肉の塊が仁王立ちしている。ゴリラのDNAを感じさせる醜悪な形状。背丈は二メートル半。幅のある肩からは二本の鞭のような腕が垂れ下がっている。爪はナイフのように鋭い。
(逃げ場がない)
背後のドアは完全にロックされていた。おそらく落下時に外部回路がショートしたのだ。フェイルセーフ機構すら働かない絶望的な状況。
グロンギが低く唸る。牙の隙間から瘴気のような呼気が漏れる。こちらを餌認定する視線が容赦なく突き刺さる。
「クックッ……」
笑みとも威嚇ともつかない声を漏らし、巨漢が両拳を交差させる。次に来るだろう打撃に備える。
刹那の判断ミスが即死に繋がる。グロンギの腕が疾風のごとく振り上げられた。空気が切り裂かれ、音速を超える衝撃波が肌を焼く。
「ぐっ!」
間一髪、床に這いつくばるように身をひねる。頭上で風圧が炸裂する音。振り下ろされた拳がコンクリート床を叩き割る。砕けたタイルが宙を舞い、破片が頬を掠める。
(まだだ……)
すぐに立ち上がれない。肋骨が軋む。背中を打ち付けた衝撃で呼吸ができない。見上げれば、怪物の第二撃が目前だった。
今度は爪による水平な薙ぎ払い。狭い室内では壁が盾にもならない。転がるように身を捩る。肩甲骨の端を鋭利な刃先が掠め、焼き鏝を当てられたような熱が走る。
「はっ……はっ……」
必死に酸素を肺に送り込む。涙腺が刺激され視界が滲む。グロンギは楽しんでいるようだった。獲物を嬲る獣性。わざと急所を外し、じわじわと体力を奪っていく。
(逆転の一手はただ一つ──)
俺は正面から襲い掛かるグロンギの攻撃。
その攻撃を躱す為に青の姿となって、その攻撃を避ける。
同時に狙った場所はエレベーターの照明を壊すこと。
それは成功した。頭上から落下するシャワーのような光粒。
一瞬だけ室内が閃光に包まれた。刹那の眩しさのあと、完全な暗闇が訪れる。非常灯さえ機能していない。
(これでいい)
心拍が急激に上がる。しかし恐慌はない。むしろ解放感すら覚える。視覚が封じられた状況下では、むしろ研ぎ澄まされる感覚がある。
グロンギの苛立ちが闇を通して伝わる。
「あとは、これを利用するだけだ」
そうしながら、俺はこの情況で逆転の一手。
だけど、それを行うのは、命懸けだ。
けれど、やるしかない。