夜になると鏡を見るのが怖くなった。蛍光灯の下で洗面台に映る自分の目が異様に大きく見える。黒目の中に細い血管が蜘蛛の巣のように広がっていて、それが微妙に紫色に濁っている。
(いつからだ?)
思い出せない。ただ昼間の病院の診察室で看護師の指先から血の匂いが漂ってきた瞬間、喉の奥で唾液がどろりとしたのを覚えている。
「ダメだ……」
枕に顔を埋めて呻く。布団の柔軟剤の香りさえ刺激臭に変わる。鼻腔を通る化学物質の構造式までイメージできる。これは進化なのか退化なのか。
ベランダに出ようと窓枠に手をかけると、右腕のギプスが内側から膨らんでいる。石膏の亀裂から淡い光が漏れている。医者は骨再生が異常に早いと言っていたが、本当は骨密度が金属レベルになろうとしているのだ。触ると冷たくて硬い。人間の体温ではない。
幻覚だと分かっていても、アパートの廊下を歩く住人たちの足音が蹄鉄の響きに聞こえる。深夜の配達バイクのエンジン音が、巨大草食獣の腹の音に変換される。聴覚の精度が上がったことで、世界の有機的側面が可視化される。
洗面台の排水溝に血が滴る。右手首の傷跡から流れ出た鉄臭い液体だ。剃刀を握りすぎた指が軋む。
「はは……やっぱり夢じゃないんだな」
鏡に映る男は笑っていない。唇の端だけが痙攣している。左頬の筋肉が硬直して歪んだ三日月型を作っている。これは俺の笑い方じゃない。
「ダグバと同じ顔だ」
0号の嘲笑が脳裏に焼き付いている。廃屋で対峙したあの存在。殺戮を娯楽とみなす絶対者。奴と同じ微笑が自分の顔面に乗っている。
冷たい金属感。洗面台の縁に手を突くと掌の皮膚が変質しているのがわかる。汗腺から分泌される液体が粘稠だ。
「俺は……誰だ?」
問いかけに鏡像は答えない。ただ紫がかった唇が弓なりに浮かぶ。それは俺じゃない。鏡の向こう側の存在だ。
恐怖が胃袋を握り潰す。指先が震える。けれど理由は分からない。戦慄すべきものは己の裡にあるのだから。
「やめろ……止まってくれ」
洗面台に両手をつき項垂れる。額が大理石を擦る感触。冷たさが背筋を這い上がる。
「誰か殺すのか?」
答えはない。ただ血の臭いだけが充満する。
宮崎は浴室のタイルに座り込む。壁の温度が骨まで沁みる。血塗れの腕を眺めながら自問する。
「戦い続ける限り……人間性は捨てざるを得ないのか?」
回答は風呂場の水垢の模様に潜んでいる。微生物の成長と退化。生命の螺旋運動。その極北に立つ0号。
(俺もいずれ……笑うんだろうか)
殺しを享楽と見る目付き。命の断末魔を祝宴とみなす価値観。鏡に映る顔がそう言っている。
「違う……そんなこと……」
言葉が喉に絡まる。唾液が鉄臭い。
そうしている間にも、感じたのは。
「…感じた気配、またかよ」
そうしながらも、まるで俺の本能をグロンギと戦わせようとするように。
俺はゆっくりと歩き始める。