夕闇が浅草橋を覆う。アーケード街の灯りが人工的な輝きを放つ中、俺は路地裏の壁に凭れかかった。コンクリートの冷たさが背中から伝わる。掌を見つめる。今日も血を浴びていないはずなのに、あの鉄錆の匂いが指の間から染み出してくる錯覚に陥る。
「違う……こんなはずじゃなかった」
呟きが路地に吸い込まれる。幼い頃の記憶がフラッシュバックする。小学校の門の前で母が手を振っていた光景。あの時はただ幸せだった。平穏こそが唯一の価値だった。
「はぁ」
掌を握りしめる。爪が皮膚に食い込む。痛みすら快感に変わりつつある感覚にぞっとする。グロンギとの戦いの中で幾度となく浴びた血の温もり。骨を砕く手応え。あれが癖になっていることはもう否定できない。
「殺戮衝動……」
舌打ちが出る。ベルトが微かに熱を持つ。腰骨に巻き付く黒い革が生物のように蠢く感覚。あの日のエレベーター落下事故以来、明らかに強化されていた。紫の装甲が脳に与える影響は計り知れない。
「このままじゃ俺は……」
0号と同じ化け物になる。ダグバという名前を聞いた時のあの恍惚。拓を守ろうとした今日の使命感。どちらも本物のはずなのに矛盾している。
携帯電話が振動する。画面上の時刻表示が深夜0時を示している。こんな時間まで立ち尽くしていた自分に呆れる。アスファルトに映る街灯の光を見つめながら考える。
「俺が戦う理由は……」
脳裏に浮かぶのは拓の泣きそうな顔。あんな純粋な魂が未来を奪われるなんて許せない。しかし同時に理解している。ベルトの力を使えば使うほど俺自身が失われていくことも。
「守るためか」
冷たい夜風が通り抜けた。アスファルトの匂いが鼻をつく。あの日……廃工場で拓を送り出した後の虚無感が蘇る。
「五代さん」
彼の名を呟くと、奇妙な安心感が胸に広がった。あの笑顔、あの太陽のような優しさ。俺と違って彼は「光」そのものだ。でも……
「俺がもし本当に0号みたいになったら」
ベルトの紫のラインが微かに明滅する。掌を見ると、血のない指先から幻影の赤い雫が滴り落ちる。錯覚とわかっていても止められない。
「彼だけが俺を終わらせてくれる」
突然の電子音がジャケットの中から響いた。
「宮崎!南東地区に新種未確認接近!民間人多数避難中!」
一条さんの声がノイズ混じりで届く。喉が渇いて粘膜が張り付く感覚。
「了解……すぐ向かう」
返事しながら深呼吸する。胸の奥で何かが蠢く。肋骨が軋む音が聞こえる。
「誰かの笑顔を守るためなら究極の闇にもなる」