扉を開けると、珈琲の芳醇な香りが鼻腔を満たした。
「いらっしゃいませ!」
カウンターの奥から五代さんが手を振る。磨りガラスの窓から差し込む午後の陽光が店内を琥珀色に染めている。
「遅かったね」
丸椅子に腰掛けると木の軋む音が心地よい。壁に掛けられた昭和レトロな時計が秒針を刻む音さえ愛おしい。
「悪いな。急な呼び出しだったから」
メニューを受け取りながら周囲を見渡す。古びた木製テーブルには埃ひとつなく磨かれている。窓辺の観葉植物が緑の葉を揺らし、時間が緩やかに流れる感覚。ここだけが外界から切り離された安全地帯のようだ。
「ブラックでいい?」
五代さんの手捌きが見事だ。サイフォンから湯気が立ち昇り、馥郁たる香りが漂う。
「ああ……お願いします」
カップが運ばれてくる間も店内BGMの「Moon River」が空間を包み込む。天井に吊るされたランタンが温かな光を投げかけ、壁の落書きポスターに歴史の趣きがある。
「やっぱり珈琲いいな」
思わず漏れた呟きに五代さんが笑う。
「でしょう?俺のお気に入りなんだ」
温かいカップを受け取ると掌がほんのりと温まる。一口啜ると酸味と苦みの絶妙なバランスに頬が緩む。さっきまでの血生臭い戦場の記憶が薄れていく。
「実はね」
五代さんの声色が突然低くなる。カップを持つ手が止まる。
「最近の宮崎くん……すごく無理してるよね?」
鋭い洞察に胸が締め付けられた。
「そんなこと……ないです」
精一杯の平静を装うが五代さんは首を横に振る。
「戦いの後、いつも一人で苦しんでることくらいわかるよ」
カウンター越しに差し出された鏡を見て息が止まった。
「これは……」
白髪だ。漆黒だった髪に雪のような銀糸が混じっている。
「気づいてなかった?」
鏡面に映る自分の顔は蒼白で目の下に隈ができている。まるで死人のようだ。
「戦うたびに君は少しずつ……壊れてる」
鏡に映る自分を見つめていると、キッチンから慌ただしい足音が聞こえた。
「五代くん!注文のシナモンロール……って、どうしたの?」
それと共に、櫻井さんも俺の方を見る。
「その髪……」
彼女の声が震えた。。
「照明のせいじゃない。明らかな色素脱失よ」
隠せない動揺の声が俺に響く。
「ストレスによる自律神経失調症……それ以上に深刻かもしれない」
彼女が俺の前髪を掻き分ける。白い毛根から生える銀糸の束が露わになる。
それを聞いて。
「俺、大丈夫ですから」
「宮崎君」
「珈琲、ありがとうございます」
それだけ言い、俺はすぐに出て行く。
「宮崎君!」
2人の声を無視して、そのまま去って行った。