風が給水タンクの影を病棟の白い壁へ這わせている。
昼とはいえ屋上には影が多い。病室の少年を守るため、俺は最上階の遮蔽物からわずかに浮かび上がる位置を選んでいた。
「――宮崎君」
一条さんの声が風に掻き消される寸前で耳に届く。
視界が失われているせいで声の遠近感が狂う。隣に立っているはずの警察官の存在が、まるで十メートル先からの呼びかけのように薄っぺらく感じられた。
「まだ、来ていないんだな」
「・・・はい、怪我をしている五代さんの分も」
そう、今回のグロンギの戦いにおいて五代さんは怪我をしている。
これ以上の無茶をさせない為にも、俺はここで奴を待ち受ける。
「五代の奴も君に無理をさせたくないって言っていたぞ」
「その心遣いだけでも本当に嬉しいです」
瞼を開いても漆黒。虹彩を通過する光は皆無。まるで胎内に帰ったような完全な暗黒世界。
代わりに鋭敏になったのは――
一条さんの革靴がコンクリートを擦る微音。
窓枠が風に軋む不規則な呻き。
少年の眠りを監視する看護師たちの足音が廊下を行き交う。
これらの音すべてが俺の鼓膜を刃物のように切り刻む。
屋上のフェンスに背中を預けている感触はある。冷たい鉄パイプの形状が背骨に伝わる。だがそれ以上の具体的な形は認識できない。フェンスの網目一つ一つさえも。ただ広大な平面上の突起物として感知できるだけだ。
(来る・・来る)
頭蓋骨の中で警報が反響する。だが敵の位置も方向も掴めない。
風の流れが変わった。
最初は微細な空気の圧。次に――床を軋ませる重みある足音が病室エリアから立ち昇る。少年の病室へ続く階段通路に、何かが降り立った。
「・・・っ!」
喉がひりつく。俺が感じ取ったのは音だけではない。病室へと伸びる暗闇の中に蠢く"質量"だ。一条さんの吐息が一瞬止まる。
「宮崎君!」
「来ました。病室に向かっています」
一条さんが即座に腰の警棒を抜く金属音。同時に俺は屋上の手すりに手を掛けた。フェンスの隙間から視線を走らせる――いや視線では無い。感知できるのは下方の病室の気配だけだ。
(階段を・・・一段ずつ・・・!)
奴の歩みは緩慢だ。だがその足取りには揺るぎない自信があった。まるで獲物が逃げないと確信している猛獣のように。
だからこそ、俺はその手に持つ鉄球を投げる。
投げた鉄球は、そのまま病室へと向かっていたグロンギに当たっただろう。
そのまま、外の庭へと吹き飛ばされる。
同時に、俺はそのまま飛び上がりながら、真っ直ぐと奴を直接殴るように走る。