その事件は、まるで映画のワンシーンみたいに唐突だった。
深夜二時過ぎ。繁華街の片隅で俺は偶然通りがかったばかりに巻き込まれた――否、目撃した。
「うわあああっ!」
路地裏から飛び出してきた二十代半ばの男。スーツが血に染まり、足元はもつれそうだ。助けようと腕を掴む瞬間――背後の暗がりで何かが動いた。
「来るな!」
制止の声とほぼ同時に飛び出してきたモノ。
それはワニ革のジャケットを纏った人影――いや、人じゃない。皮膚が爬虫類めいた鱗に覆われ、口元にはナイフのような牙がちらつく。両腕には巨大なワニの頭部を模したガントレットが嵌められていた。
逃げようとした男の背中に凶器が突き立てられる。肉を裂く鈍い音。噴き出す血は鉄臭く、俺の頬に飛沫した。
「……くそっ」
冷静になれと言い聞かせるも、体内のベルトが熱を持つ。だが変身すれば目立つ。未確認生命体が市街地で暴れるリスクを考慮すべき――はずなのに。
「がああっ!」
死体に跨がる影が咆哮を上げた。歯茎を剥き出し、牙の間から涎が糸を引く。人間離れした膂力で死体を持ち上げようとしている。止めなければ。俺しかいない。
内心で何度も唱えながらポケットの携帯を開いた瞬間――影が振り向く。血塗れの眼光と視線が合う。逃げ場がない。
訳も分からない言葉で笑われた気がした。次の標的は俺らしい。
その刹那――
腹部のベルトが胎動した。普段は大人しい宝石が沸騰し、銀色の鎖が蛇のように蠢く。皮膚の下を血管とは異なるネットワークが駆け巡る感覚。全身の骨格が一瞬弛緩し、即座に硬質化する。
「変身!」
制御しようとする意思と裏腹に変貌は不可避だった。
「ぐあっ!」
迫るワニ顔の爪撃を紙一重で避ける。アスファルトが拳大に抉れ飛ぶ。その破片を踏み台に後方に跳躍。
「……許さねぇ」
低く呟くと同時に、全身の色素が抜けていく。指先から毛穴へと広がる白化。皮膚に走る白銀の文様はダグバの痣を想起させる。瞳だけが爛々と赫く灯る。
「ガルッ!?」
敵の驚愕を置き去りに駆けた。疾風のごとき接近。鈍器じみたガントレットが横薙ぎに振るわれるも――
「遅ぇ」
下から掬い上げるように爪先を蹴り上げる。単純な剛力ではない。踵が回転運動に変換し、弧を描いた爪撃が天を仰いだ。
「ゴフッ」
勢いで体勢を崩した敵の顎へ掌底。ガードしようと肘を引くがダグバの異常な可動域で懐に潜り込む。拳は顎骨を撃ち抜くと同時に柔軟性を持たせた。衝撃の98%が体内で爆ぜる。
「グッボ……!」
のけぞった敵の背中を両手でつかみ引き寄せつつ膝を腹腔へ――
「バカデケェ図体しやがって」
体重を乗せて膝蹴りを三点に分散。肋骨が砕ける鈍い音とともに血の泡が口から溢れた。
だが――
「舐めんな!」
強靭な尾が鞭のように唸る。鋭利な棘が生えた尾骨が俺の背面装甲を掠め火花を散らした。
「チッ」
咄嗟に反転。背面の装甲板を犠牲に威力を殺す。しかし爪先まで衝撃は伝わり足首に痺れが走る。
「ゴルアアア!」
敵の咆哮に呼応してガントレットの刃が肥大化。噛みつきながら巨躯を捻じる捨て身のタックル。
「力技で来たか」
全身の腱を緊張させ受け止める。両掌で首筋を挟み込み締め上げると同時に膝を喉笛へ叩き込む。だが――
「うっ」
想像以上の耐久値。どころか背中の棘が一本だけ軟化し高速で射出された。
「甘ぇぞ!」
顔面に迫るそれを左手の甲で払う。甲冑が焦げた匂いを撒き散らしながらも被弾箇所のみを再生させる。傷跡は一瞬で塞がった。
「……殺す」
感情と命令系統が乖離する。怒りはある。しかし脳は冷徹に次の動作を組み立てている。
両手を左右に広げた。敵の動きに合わせて半自動的に身体が最適解を導き出す。
「ふっ!」
左の肘鉄で首の角度を変えた直後、右の掌底で顎骨を再度揺らす。衝撃の多重作用により平衡感覚を奪う連続技。
「ゴ……」
ついに敵の膝が崩れた。だが倒れ際の振り向きざまにガントレットの刃が袈裟懸けに振るわれる。
「終わってねぇぞ」
身を沈め刀身を躱し腿の裏から跳ね上げる。宙空での180度回転を利用し踵落とし。尖った踵が鎖骨に命中すると同時に踵部の微細な杭が刺さる。
「グルル……」
まだ呻き声が零れる。頑丈な奴だ。ならば――
「これで終いだ」
地面に両手をつき逆さの姿勢で蹴りあげる。真円を描く脚捌きが喉を打ち抜き最終的に腹部を圧迫。内臓が悲鳴を上げるのが視認できるほどの膨張。
「ゴ――――」
断末魔すら完遂することなく敵の肉体が吹き飛んだ。路上の植栽を数本薙ぎ倒しフェンスに激突。
轟音とともに砂埃が舞う。
瓦礫が散乱し、夜の帳が血臭に沈んだ――はずだった。
「……ッ!?」
確かに奴はフェンスに激突し、コンクリートがひび割れた。首は変な方向に曲がり、紫色の舌がだらりと垂れている。
だが……動かない。ぴくりともしない。
おかしい。あまりにも静かすぎる。
「……死んだのか?」
確かめるために近づこうとしたその時だった。
ぽたり。
ぽたり、ぽたり。
「……雨?」
空は晴れている。満月がかすかに雲を照らし、世界を蒼白に染めていた。
だが、血溜まりの中から――水滴の音。
月明かりが差し込む場所に、見慣れた影があった。
「……!」
俺は一歩後退った。
奴の胴体が――消えていた。
首から下がごっそりと消失し、首だけがフェンスに引っかかり、今なお脈打っている。
そして俺の視線の先――
排水路のふたが、ゆっくりと持ち上がっていく。
月光を遮るように落ちていくふたの下から、血混じりの水流が滴り落ちる。
水滴と血が交じり合いながら。
その暗渠の中に、ひとつの丸い目玉が浮かび上がって俺を見つめ返していた。
「……まさか」
それは間違いなく――逃走ルートだ。
「水に……?」
脳裏を走ったのは奴のワニを彷彿とさせるガントレット。皮膚はぬらぬらと湿り気を帯び、水辺での動きにも有利――そんなデータが記憶から蘇る。
「おい……どこ行った」
呼びかけても返事はない。
ただ排水溝の奥から、ぬちゅ、と湿った足音だけが聞こえた。
そして――
ぽちゃん。
闇に消えた音と同時に、水面が揺れ、泡がひとつ湧き出る。
赤く濁った血の泡が月光を反射し、すぐに霧散した。
俺は変身を解いたまま排水口を睨みつけた。
「逃がした……か」
変身を保つ力は限界だった。
全身が火照り、関節が悲鳴を上げる。
だがそれ以上に――
背中を這い上がる寒気が消えない。