夜明け前の繁華街は、妙に静かだった。
つい数時間前まで血と暴力が渦巻いていた場所とは思えないほど、街は澄ました顔で眠っている。
だが、警察の規制線の向こうはそうもいかない。
白いチョーク、散らばった破片、血痕。
そして、焦げてえぐれたアスファルト。
俺――宮崎は一条さんの後ろでそれらを見つめていた。
「ここが……未確認に襲われた現場、か」
一条さんの声は低い。
だが、俺の胸の高鳴りよりはずっと静かだった。
「はい。……俺が戦った場所です」
言ってから後悔する。
声が震えていた。
昨夜の記憶が蘇る。怒りで真っ白になったあの瞬間――
血と、骨と、肉の砕ける音。
一条さんは俺を一度だけ見たが、問い詰めたりはしなかった。
ただ、淡々と現場を観察し続ける。
「……宮崎くん。やはり、逃げたんだな?」
「はい。とどめを……刺しそこないました」
言い訳にも聞こえるし、事実でもある。
俺の拳が敵を殺しきれなかったのか、それとも――
敵が“死んだ演技”をしていたのか。
その両方の可能性が怖い。
「ここを見ろ」
一条さんが指差したのは、血痕の軌跡。
フェンスに激突した地点から、排水口の方向へ細い線が続いている。
「血が……流されてる?」
「いや。これは意図的に“引きずった跡”だ。
未確認が自分の体を……運んだと考えるのが自然だ」
「……逃げるために?」
「いや、逃げるだけならもっと早いはずだ。
それに――」
一条さんは手袋越しに、フェンスに残った“白い粉”を拭い取る。
「これは……皮膚か?」
「脱皮……みたいな?」
「可能性はある。ワニは成長と活動期に皮膚を剥ぐ。
だが、ここまで人型で完全脱皮する生物など……普通はいない」
「未確認ですからね」
「そうだ。未確認だ」
その言葉は、妙に重かった。
俺の力も、未確認。
俺が怒りに呑まれたあの感覚も、未確認。
一条さんは排水溝のふたを見下ろす。
「宮崎くん。この未確認は、単に暴れていたわけじゃない」
「どういう意味ですか?」
「殺されていた男性の財布と携帯電話が残っていた。
金銭目的ではない。
それに、監視カメラに気になる映像があった」
「映像……?」
一条さんは深いため息をつき、タブレットを取り出した。
そこに映っていたのは――
肩をぶつけられた瞬間、未確認が男を追い始める映像。
走る。
追う。
路地裏へ。
そして――死。
「これ、まさか……」
「ゲゲルだ」
一条さんは断言した。
その声は普段よりも硬い。
「この未確認のルールは、
“わざと肩にぶつかり、文句を言ってきた相手だけを殺す”
……そう判断していいだろう」
「喧嘩を売られたら殺す……そんなの、ゲームって言えますか?」
「彼らにとってはゲームなんだろうな。
我々の常識で測れない“価値”がある」
肩をぶつける。
いちゃもんをつける。
それだけで“殺される理由になる”。
そんなルールのどこに正義がある?
どこに価値がある?
俺の中の怒りは、昨日よりも静かで――
代わりに冷たかった。
「……宮崎くん」
「はい?」
「昨日の戦い方……無茶をしたな?」
心臓が跳ねた。
呼吸が一瞬止まるような感覚。
「い、いや……その……」
逃げられない。
ここで嘘をつくのは、きっと一番良くない。
「怒って……たんです。未確認のやったことを見て。
あいつが、次に俺を狙ってきたとき……
もう我慢できませんでした」
言葉は震えていなかった。
むしろ静かすぎた。
一条さんは何も言わなかった。
ただ、排水溝の暗闇を見つめたまま、ゆっくり口を開く。
「……怒りは否定しない。俺も同じ気持ちだ。
だが宮崎くん。君の力は危険だ。
暴走すれば、未確認以上の脅威になる」
それは警告であり、同時に信頼でもあった。
俺は小さく息を吸った。
「わかってます。……でも」
「でも?」
「俺は……逃げません。
あいつらがルールを押し付けて人を殺すなら……
俺は、それを許さない」
その瞬間――
排水溝の奥から、ぬちゅ、と水の音がした。
二人とも同時に顔を上げる。
暗闇の奥。
何かが動いている。
未確認はまだ近くにいる。