下水道の空間は、思った以上に狭く、そして低かった。
天井は手を伸ばせば触れそうで、コンクリートの表面には黒ずんだ水垢と苔が張り付いている。壁際を流れる水は浅いが、底は見えない。濁った流れが鈍く反射し、月光の代わりに錆びた照明の残光を歪めていた。
一歩踏み出すたび、靴底が不快な感触を伝えてくる。
滑る。
下水特有の油膜が水面に薄く広がり、踏ん張ろうとした脚の力を、容赦なく逃がしていく。足首に余計な力が入り、筋肉が悲鳴を上げる。普段なら何でもない動作が、ここでは命取りになりかねない。
脚に力を込める。
すると、ぐにり、と嫌な感触が伝わった。
水に溶けきらなかった何か――泥か、廃棄物か、それとも別のものか。考えた瞬間、胃の奥がひくりと痙攣する。腐臭が鼻腔を満たし、喉の奥に貼り付く。呼吸をするだけで、不快感が体内に蓄積していく。
それでも、脚は自然と低い姿勢を取っていた。
重心を落とし、滑りを前提に筋肉を緊張させる。
踏み込む力を殺し、反発を最小限に抑える――
身体が、ここで戦うための“形”を選んでいる。
水音が響く。
反響して、距離感を狂わせる。
視界も、足場も、匂いも最悪だ。
――それでも。
この場所は、逃げ場ではない。
戦うための檻だ。
俺は静かに息を整え、
滑る下水の底で、次の一歩に全神経を集中させた。
水を裂くような音とともに、未確認が襲い掛かってきた。
ワニを思わせる低い姿勢。巨体を前に投げ出すような突撃が、下水の流れごと押し潰しに来る。
「……来た」
その瞬間、身体が応えた。
装甲が軋み、紫の色彩が全身を覆っていく。
細く、鋭く、暗殺者のような輪郭へと変わる。
正面衝突は論外だ。
脚に力を込めると、関節が外れ、あり得ない角度で身体が沈む。
突撃は頭上を通過し、重い風圧だけが残った。
水面を滑るように移動し、壁を蹴る。
滑りすら味方につけ、紫の影が未確認の死角へと回り込む。
「当たらなきゃ、ただの重りだ」
脇腹をかすめる蹴り。浅いが確実だ。
重量級の攻撃を嘲笑うように、俺は紫の姿のまま、下水の闇を舞った。
だが、思ったほど身体は言うことを聞かなかった。
脚を踏み替えた瞬間、下水に広がる油膜が容赦なく足裏を奪い、踏ん張りが利かない。
体勢を整える前に、重心が流れ、無駄な動きが生じた。
「……チッ」
一方で、未確認は違う。
ワニを思わせる巨体は低く構え、腹を水面に擦るようにして動く。
滑る下水は、奴にとっては敵ではない。むしろ慣れ親しんだフィールドだ。
突進。
短い距離でも十分な加速。水を掻き、尾が舵となって進路を微調整する。
俺が避けた“はず”の場所に、次の瞬間には牙が迫っていた。
「っ……!」
脚を引いた瞬間、また滑る。
一拍遅れた反応。
その隙を逃さず、ガントレットが振り下ろされ、紫の装甲が火花を散らした。
未確認は、この場所を知っている。
俺はまだ、適応しきれていない。
下水の闇の中、
地の利を得た獣と、足場を失った暗殺者。
戦況は、確実に傾き始めていた。